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どうでもいいようなことをつぶやいています


サンタがやってきたのかも

無くしたと思ってあきらめていたものがひょっこり出てきた。探し物は探すのをやめたときに見つかるというけど、探すのをやめてからもう 2 年間も経っていたので、さすがにどこかに忘れてきたか落としたかのどちらかだろう、とあきらめていた。

出てきたものは眼鏡のクリップオン。普通の度付眼鏡に取り付けると簡単にサングラスになるというやつだ。正確には、マグネット式なのでクリップオンとは呼ばないのかもしれないが(マグネットオン?)、細かいことは気にしない。

眼鏡とクリップオン普段は普通の眼鏡として使用

近眼の人間がサングラスをしたいと思った場合、度付のサングラスを作るか、コンタクトレンズを装着してサングラスをかけるか、通常の眼鏡にサングラスのクリップオンを付けるしかない。この眼鏡はクリップオンが付いているという理由で購入した。だから、無くしたと思っていたサングラスのクリップオンが出てきたのはすごく得をした気分だ。

クリップオンを取り付けた状態クリップオンを取り付けると簡単にサングラスに

探し物はとんでもないところで見つかることが多いが、このクリップオンは普段からよく目にしていた眼鏡ケースに入っていた。特にそれを探すでもなく何気なく開けたら入ってのだ。きっと神様が、「その眼鏡ケース開けてみろ」ってつぶやいてくれたんだと思う。いや、今日はクリスマスだから、サンタクロースのプレゼントかもしれない。どっちにしても、今日は小さなハッピーを感じた 1 日でした。

クニマスを発見したさかなクンに拍手

昨日、絶滅したとされていたクニマスの生息が 70 年ぶりに確認されたことがニュースになっていた。この発見が学術的にどれだけ価値のあることなのかはよくわからないが、この快挙にさかなクンが一役買っていたとのこと(快ギョッ!さかなクン70年ぶり絶滅種"発見")。普段は妙な魚(ハコフグらしい)の帽子を被って、甲高い声でしゃべる天然キャラで通っているが、魚に関する知識はかなりのものらしい。

「脳ある鷹は爪隠す」は私が好きなことわざの 1 つ。「実力のある者は、むやみにそれを誇示することはしない」という意味であるが、さかなクンは真の脳ある鷹だったのかも。

「脳ある鷹は爪隠す」とはちょっと違うのかもしれないが、私は昔から「やる気満々」な人がどうも苦手だ。「がんばってます」とか「やる気あります」という雰囲気を出しまくっているタイプの人たちである。そういう人がたとえ高い能力を備えていたとしても、なんだかなあと思ってしまう。

逆にかっこいいと思うのが、やる気がまったくなさそう見えて、実はすごい能力を持っていたり、すごい仕事をさらっとやってのけたりする人たちだ。「がんばってます」とか「自分はできますよ」みたいな雰囲気はおくびにも出さない。これは謙虚な人というのとは少し違う。うまく言えないが、すごさを感じさせない人である。

やる気アピール度と実力の組み合わせに基づいて人間を 4 つに分類した場合、私が思うかっこいい順は次のようになる。

  1. やる気はなさそうに見えるが能力が高い人

  2. やる気はなさそうに見えて実際に能力も低い人

  3. やる気満々に見えるが能力は低い人

  4. やる気満々に見えて能力も高い人

実際の能力・実力とは関係なく、私はどうもやる気満々タイプが好かんようである。

以前、何の番組かは忘れたが、光り物や青魚と呼ばれる魚の背中が青く腹が白い理由をさかなクンが説明しているを聞いてへぇと思った記憶がある。上(空)から見ると海の青色と同化し、下(ほかの魚)から見ると水面と同化して見えにくいためらしい。生物がそういう色や形状をしているのにはそれなりの理由があるんですねえ。


本末転倒

最近妻は、たらみのゼロカロリーゼリーとかいうものを好んで食べているようである。お腹がすいたときに何か食べたいけど、カロリーの高いものは避けたいからという理由で食べているのだという。

たらみのゼロカロリーゼリーたらみのゼロカロリーゼリー

しかし、よく考えてみるととってもおかしな話である。人間は、いやすべての動物はずっと飢えと戦ったきたわけであり、いかに食料を確保するか、いかにカロリーの高い食品を効率よく摂取するかが最大の課題だったはずである。ご飯をたらふく食べたあとでも、甘いものなら食べられられる「別腹」という現象は、飢餓に備えて高カロリーのものはできるだけ摂取しておこうという人間(動物)のハイカロリー指向を象徴している機能である。

だから、ゼロカロリーのものをわざわざお金を出して買って食べるというのは本末転倒な行為である。なるべく安くてカロリーの高いものを求めるのが本来の姿である。巷には、低カロリー、カロリーオフ、ゼロカロリーを謳った商品があふれかえっている。どれもこれも本末転倒な商品だ。

そう言えば、昔これとよく似た話があったなあと思って考えていたら、筒井康隆の『にぎやかな未来』という本に、本末転倒を題材にしたショートショートが収録されていたことを思い出した。

常にレコードをかけていないと罰せられるという変な法律ができている、未来の様子を描いた話だったと思う。町には CM の音楽が騒々しく流れ、レコードには広告が挿入されるようになっていて、私たちは常に CM を無理り聴かされている状況になっていた。そんな世の中でいちばん高価なレコードは、何も音が入っていない無音のレコードだった。たしか、こんな感じの話だった。

未来の話なのに、CD じゃなくてレコードっていうところが玉に瑕ではあるが、まあそれは仕方ないか。


ピンクの何がそんなに女の心を引き付けるのか

先日テレビで横山めぐみさんが「ピンク色が大好きで、ピンクのかわいいものを見つけると、我慢できずについつい買ってしまう」と言っていた。彼女に限らず、ピンク色が異常に好きな女性は珍しくない。私の周りにもピンク色の物を好んで買っている女性はけっこういる。

子どものころは、赤やピンクは女の子色、青や水色は男の子色として区別されている。男は大人になるにつれて青や水色への執着が薄れていくが、女性はいつまでも赤やピンクに対する執着が残っているんだろうか?

男には多少色の好き嫌いはあると思うが、特定の色に対する執着はそれほどない。私も、「好きな色は?」と聞かれたら、グリーンと答えると思うが、すべての物を緑色で揃えたりしたいとは思わない。

男性用の衣類の色として、ピンクは絶対に考えられられない色だ。男がピンク色の服を着るには、かなりの勇気がいる。特に色の濃いピンクを着ようものなら、変な目で見られることは間違いない。ピンクは明らかに女性用の色なのだ。

それに対して、女性が着用すると異様な雰囲気になる色は存在しない。女性は何色でも着られる。つまり、男限定の色は存在しないことになる。そう考えると、ピンクという色は特殊な色なのかもしれない。ピンクには、男にはわからない特別なものがあるのかもしれない。ピンクの何がそんなに女の心を引き付けるんだろうか?


イメージ

およそ半年ぶりの更新。また書きたいモードになったので、いつまで続くかわからないけど、しばらくの間、ちょくちょく更新してみようと思う。

人間というものは、他人に対して勝手なイメージを持つものである。

私の場合、俳優の高嶋兄弟のイメージがどうしても逆なんじゃないかと思ってしまう。つまり、高嶋政宏氏と高嶋政伸氏の顔と名前のイメージが一致しないのである。政宏氏はどちらかというと政伸という感じの顔をしているし、政伸氏はどちらかというと政宏という感じの顔をしている。だから、この兄弟をテレビで見ると、「これは、政宏っていう感じの顔をしているほうだから政伸だな」といった具合に、頭の中で高嶋変換を行っている。こんな違和感を持ってるのは、世の中広しと言えども私だけだろうか。

私の中で、数十年にわたってイメージがほとんど変わらない芸能人がふたりいる。大滝秀治氏と岡本信人氏だ。

大滝秀治氏は、私が 10 代のころすでにおじいさんだった。プロフィールを見ると、1925 年生まれとなっているので、私が子どものころは 40 代 ~ 50 代だったことになる。今から考えると、まだおじいさんという年齢ではないのだが、私の中のイメージとしてはすでに 70 ~ 80 才くらいのおじいさんだった。そして、今もそのイメージは変わらない。私の中で、大滝秀治氏は永遠のおじいさんである。

もうひとりの岡本信人氏は、私が小学生のころに、当時人気があった『肝っ玉かあさん』や『ありがとう』といったホームドラマに出演していた。1948 年生まれということなので、当時は 20 代前半のバリバリの若者だったことになるが、子どもの私の目にはばりばりのおじさんに見えた。この人のイメージもいまだに変わらない。若いときでも年をとっても、常に 30 代後半 ~ 40 代前半というイメージを与える変わった人である。岡本信人氏は永遠の中年。

最後に、私が小学生のころ V9 時代の読売巨人軍を率いていた川上哲治氏についても、私は当時は相当なおじいさんだと思っていた。決しておじいさんという年齢ではなかったのだが。現在、当時の川上監督を映像で見ると確かに年相応に見える。子どもっていうのは、大人の年齢を正しく判断できないから、このような思い込みは仕方ないのかもしれないが・・・。

イメージっていうのはもともと勝手なものであるが、ほかの人が自分にどんなイメージを持っているのか、気になるようなならないような。

記憶

昨日 Twitter で、「東京オリンピックはまったく記憶にない。記憶にある最初のオリンピックはメキシコ。当時、オリンピックは常にメキシコでやるものだと思っていた」とつぶやいていたところ、同世代のふたりの方から「僕はかすかに東京五輪の記憶があります」だとか「東京のときは世間の雰囲気だけ記憶に」といったようなリプライがあった。私の認識が正しければ、ふたりとも私よりも 1 歳若いはず。

東京オリンピックが開催されたとき私は 4 歳。ということはこのふたりは当時 3 歳ということになる。驚きだ。さらにひとりの方は、3才くらいの頃からいろいろなことが記憶にあるという。私の 3 歳の時の記憶といったら 1 つしかない。長良川の鵜飼を見に行った記憶だ。この出来事は、川と船と鵜の鮮明な映像とともに記憶しているのだが、これが唯一の記憶でほかのことは一切覚えていない。私の場合、いろいろな記憶があるのはせいぜい 5 ~ 6 歳のころからだと思う。

そういえば、「0 歳のときに飛行機に乗ったことを覚えている」と言っていた知人がいたことを思い出した。そんなことが本当にありえるのか。また、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分が母親の胎内にいたころのことを覚えていると聞いたことがある。赤ちゃんはしゃべれないのでその記憶を伝える術がないのだが、「しゃべれるようになったら、お母さんのおなかの中にいたときのこと教えてね」と言い続けていると、しゃべれるようになったときに胎内の様子を話し出すらしい。

さすがに、母親の胎内にいた時のことを覚えているおとなには出会ったことがないが、広い世の中には、胎内時代の記憶がある人もいるかもしれない。でも、このような記憶の差っていうのはどこから生まれてくるんでしょう。ひょっとして、4 歳以下の時の記憶がほとんどない私の記憶力には、何か欠陥があるんでしょうか。

本日をもって満半世紀 - 思えば遠くに来たもんだ

今日は私の 50 回目の誕生日。今日でちょうど半世紀生きたことになる。誰でもそうだと思うが、若いころは自分が 50 歳になるなんて、はるか彼方の出来事だと思っていた。実際に 50 歳になった感想は「思えば遠くに来たもんだ」という感じ。

この 50 年を振り返ってみると、思い出しても「穴があったら入りたくなる」ような恥ずかしいことばかりしてきたような気がする。つい 10 年前のことでさえ、なんであんな馬鹿なことしたんだろうと思ってしまう。恥ずかしいことだらけの過去ではあるが、少しだけいとおしくも思える。

わが人生の現在時刻は 16 時 40 分。暗くなるまでにはもう少し時間がある。本当のお楽しみの時間帯まであとひとふんばりか。お楽しみの時間にはどんな楽しいことが待っているんでしょうか(人生の現在時刻については「わが人生の現在時刻は 15 時 20 分」を参照)。

残りの人生があと何年くらいあるのかわからないけど、「生かされている」ことに感謝しつつ、この先どうなるかは「宇宙にお任せ」で日々生活していければいいなと思っているが、それがなかなか難しいだよなあ。というわけで、そんな私の今後の座右の銘は「Let it be」と「ケ・セラ・セラ」と「なんくるないさ」に決めた。(「なんくるないさ」の意味については、「なんくるないさーの本当の意味」を参照)。

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便利は新しい不便を生む

今日の午後は、仕事が一段落してちょっと時間的な余裕ができたので、久しぶりに長めのウォーキングに出かけた。風が多少強かったが、春のやわらかい陽射しが気持ちよかった。今日の歩行数は 12,238 歩。今週の前半は忙しくてあまり歩けなかったので、今日のウォーキングで今週の歩数不足を十分に補うことができた。フリーランス翻訳者の最大の敵は運動不足で書いたように、週単位で 1 日平均 5,000 歩を達成することを目標に掲げているのだが、この目標を達成するのは容易なことではない。「時間ができたら歩こう」ではなく、無理やりにでも歩く時間を作らないと達成できない。

しかし、よく考えてみれば、健康のために歩くというのはまことに妙な話だ。現代では、歩くこと自体が目的になってる。落語を通して見る江戸時代の生活と世相でも書いたように、江戸時代の人にとって歩くことは移動の手段だった。歩かないと目的の場所に行けないから歩いていた。現代のように健康のために歩いている人なんかいなかった。

自動車や電車などの発明によって、短時間で楽に目的の場所に移動できるというメリットが生まれたおかげで、現代人には運動不足という新しいデメリットが発生し、その結果私たちは健康のために歩くという本末転倒な行為を行っていることになる。

医学の進歩についても同じことが言える。医学が進歩したおかげで、多くの人の命が助かるようになった。人の寿命も大幅に伸びた。しかし、このようなプラスによって、新しいマイナスが生み出されている。たとえば、医学的措置によって寝たきりや植物状態で生きている人たちが、家族に大きな負担を与えているといった状況だ。

新しい便利(プラス)が生まれると、必ず形を変えて別の不便(マイナス)が生じる。そして、私たちは新しく生じた不便を解消するような便利を生みだし、それに伴ってまた新しい不便が生まれる。便利と不便で常にプラスマイナスゼロ。大局的に見れば、世の中は太古の昔からまったく進歩していないのかもしれない。これって、昔物理で習ったエネルギー保存の法則に似ている。いや、作用と反作用の法則か?まあ、どっちでもいい。

間もなくプロ野球セ・リーグが開幕する。野球シーズンがまた始まることにわくわくしている。野球が始まることによって生じるデメリットもちろんある。私の場合は、野球依存症という病気が発症することである。

答は風に吹かれていた

ボブ・ディランの『風に吹かれて』を初めて聴いたのは中学生のときだったと思う。ディランはこの曲でさまざまな問題を投げかけ、最後に「友よ、答は風に吹かれている」と歌っている。当時、なんと哲学的でかっこいい詩なんだろうと感心したことを覚えている。

それ以来、私の人生にはさまざまな問題が起こった。ときには深く頭を悩ませるような問題も起こったが、残念ながら「答が風に吹かれて」いたことは一度もなかった。

明石家さんま氏が「しあわせって何だっけ、何だっけ」と歌うキッコーマンの CM が流行したのはもう 25 年も前のことらしいが、昨年この CM が新しいバージョンとして復活した。この CM では、「しあわせとは何か」という問いに対して、「うまい醤油のある家」と歌っている(旧バージョンでは「ポン酢醤油のある家」)。虎舞竜の『ロード』でも、「何でもないようなことが幸せだったと思う」と歌われているように、「うまい醤油のある家」という答はあながち間違いでもないかもしれないと思ったりもする。

先日、春の穏やかな昼下がりをウォーキングしていたら、「幸せとは何か」に対する答が風に吹かれていたような気がした。その答とは、「明日が来るのが楽しみなこと」だった。仕事のことでもいい、遊びのことでもいい、食べ物のことでもいい、どんな些細なことでもいいから、明日が来るのが楽しみに感じる毎日を過ごせたら、それはとっても幸せなことなのではないかと思う。

私の目下の最大の楽しみは、今週金曜日に開幕するプロ野球セ・リーグ。これで、今後数箇月間私の幸せは保証された。


ザ・ベスト・オブ・ボブ・ディランザ・ベスト・オブ・ボブ・ディラン
ボブ・ディラン

曲名リスト
1. 風に吹かれて
2. 時代は変わる
3. くよくよするなよ
4. ミスター・タンブリン・マン
5. ライク・ア・ローリング・ストーン
6. 女の如く
7. 見張塔からずっと
8. レイ・レディ・レイ
9. アイ・シャル・ビー・リリースト
10. イフ・ノット・フォー・ユー
11. 天国への扉
12. いつまでも若く
13. ブルーにこんがらがって
14. オー,シスター
15. ガッタ・サーヴ・サムバディ
16. ジョーカーマン
17. エヴリシング・イズ・ブロークン
18. 嵐からの隠れ場所(オルタネイト・ヴァージョン) ※〈CDテキスト〉

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宝くじ高額当選者の思い

久しぶりにロト 6 を購入。当たりっこないとは思いつつ、「もしかして」という淡い夢を抱いてついつい買ってしまう。

宝くじの高額当選者の多くが、数年以内に当選金を使い果たしたり、破産したりしていて、結局は不幸な結果を招いていることが多い。だから、宝くじなんかは当たらないほうが本当はいいのかもしれない。こんな内容のことを妻に話したところ、「私なら、当たったことを絶対誰にも言わない。派手な生活なんか絶対にしないし、今よりも少しだけ贅沢できたら十分。仕事はやめるかもしれないけど、今までどおり地道に生活できる自信があるから、絶対に破産なんかしない」と反論。

妻は、大金を手にしたら、そういう地味な生活を送るということが最もできそうにないタイプだと思うのだが、何も言わないでおいた。そういうことが本当にできるのは妻でなく私だと思う。

破産してしまった高額当選者の多くも、大金を手にする前はきっと私たちと同じように考えていただろう。でも、破産後は、こんなことになるなら当たらなかったほうがよかったと思っているんだろうか。それとも、今度当たったら失敗の経験を生かして、上手にお金を遣う自信があるから、もう 1 回当たれと思っているんだろうか。

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