[ことば] カテゴリー

ことばに関するさまざまな雑談


俳句熱再び(自選57句)

 俳句を始めて4年になる。昨年の秋ごろからしばらく俳句熱も冷めていたのだが、同業者のある人から勧められた本(漫画)を読んで俳句熱が再燃した。『あかぼし俳句帳』という俳句をテーマにした漫画である。窓際に追いやられたとある中年のサラリーマンがひょんなことから俳句と出会い、俳句の世界にのめり込んでいく物語。

 あと、別の同業者の方から『芸人と俳人』という本も教えてもらった。芥川賞作家の又吉 直樹さんが、俳人の堀本裕樹さんの指導の下、俳句を勉強していくという内容の本である。この2つの本を読んでいるうちにまた猛烈に俳句が詠みたくなって、この3月からせっせと俳句を詠んでいる次第である。

 この機会に、過去4年間で自分が詠んだ句を振り返ってみた(拙句は「ハイ!句にしろ!」で公開しています)。詠んだ句の総数は446句。その中で自分のお気に入り9句を自選してみた(「NHK俳句」の入選句の数が9であるため、それに倣った)。一次候補で選んだ句が57句。それぞれに思い入れがあったので、そこから9句に絞るのは大変だったが、悩んだあげく以下の9句を選んでツイートした。

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卵と玉子

 「卵」という字が嫌いだ。もっと正確に言うと、卵焼きやゆで卵など、「たまご」料理の名前に「卵」という字が使われていると気持ちが悪くて仕方がない。自分で書くときは必ず、玉子焼き、ゆで玉子など「玉子」という表記を用いる。「たまご」料理に卵という字を使うと何故こんなに気持ち悪いのか考えてみた。

 「『卵』」と『玉子』はどう使い分ければよい?」@日本語不思議辞典「『卵』と『玉子』の違い、知っていますか?」@たまご通信によると、一般的に以下のような使い分けがあるらしい。

卵 = 生物学的な意味での「たまご」
玉子 = 食材としての「たまご」

 なるほど。確かに卵という字は、字の成り立ちから考えても、生物として孵化する可能性がある「たまご」を連想させる。卵焼き、ゆで卵などと書いてあると、羽や足などができかかり、ひよこになりつつある「たまご」を焼いたり、ゆでたりしたような印象を持ってしまう。

 さらに、上記の2つのサイトでは、食材としての「たまご」の場合でも、「生の状態のものを「卵」、調理されたものを「玉子」と書くのが一般的であるとしている。しかし、私は生の状態であっても、すき焼き用のソース、たまごかけご飯に使用する「たまご」を「生卵」と書くのはやはり気持ち悪い。たとえ生であっても、食材としてスーパーなどで売られている段階でそれは「生玉子」なのではないかという気がする。私の感覚では、生卵とは、野生のニワトリが自然界で産み、ひよことして孵化する可能性あるものであり、普通は人間が食べることがないものである。

 ただし、NHKが字幕で「たまご」という字を使う場合は、生か調理済みかに関係なく「卵」に統一しているとのこと(「卵焼き? 玉子焼き?」@NHK放送文化研究所)。そして、NHKのアンケートによると、半数以上の人が生か調理済みかによって「卵」と「玉子」を使い分けており、若い世代の人ほどその傾向が強いとのこと。卵焼きやゆで卵を気持ち悪いと感じているかどうかは別として、卵焼きやゆで卵といった表記を意図的に使わないのは私だけでではないようである。しかし、生であっても、食材とて売られている以上は「生たまご」も「生玉子」と書かないと気持ち悪く感じる自分は超少数派に分類されると思われる。

「(笑)」について考える

飲食店のメッセージ 時代とともに多くの新しいものが生まれ、流行り、そして廃れていく。インターネット上で使われる「(笑)」もその 1 つである(最近の SNS では、「w」「ww」「www」や顔文字が「(笑い)」に取って代わりつつあり、「(笑)」は廃れつつある感はあるが)。世の中で「(笑)」が使われるようになったのは、インターネットや電子メールが普及し出したころだから 15 年ほど前か。文字だけのコミュニケーションと言えば、昔は手紙しかなかった。しかも、普段顔を合わせる友だちと手紙をやりとりすることなどなかった(せいぜい年賀状くらい)ので、「(笑)」を使う機会も必要性もなかった。

 「(笑)」はネット上だけに留まっていない。先日大阪のお初天神に行ったときのこと。ある店の入口に写真のようなメッセージが書いてあった。送りがな、漢字とかなの使い分け、括弧類の使い方などとは異なり、「(笑)」の使い方については正しい用法のガイドラインといったものは当然存在しない。どういう使い方が正しくてどういう使い方間違っているといった基準もない。各人が好きなように使用すればいい。そう断った上で、私が考える正しい「(笑)」の使い方について少し書いてみたい(あくまでも個人的見解)。

 まず写真の「(笑)」の使い方は私的には NG。「パッパラーに来るとアホになります(笑)」は大阪らしいおふざけなのだが、この「(笑)」でせっかくのジョークが台無しになっているような気がする。「(笑)」がないほうが絶対におもしろい。そもそも「(笑)」が生まれた理由は、相手の表情が見えない文字情報だけでは、その発言が本気なのか冗談なのか区別がつかないときに、「冗談ですよ」と伝えるためだと思う。「パッパラーに来るとアホになります」は冗談であることは明らかだ。内容そのものがおもしろいのだから「(笑)」は必要ない。

 おもしろいことを言おうとするときに、笑ったり、「おもしろいこと言いますよ」感を出したりする人がいるが、おもしろいことは普通の表情で、普通の口調でさり気なく言うほうがおもしろい。本人が笑ってしまうとおもしろさが半減するものだ。そういう意味では、いちばんおもしろいのは天然ボケの人の発言だ。本人におもいしろいことを言っている自覚がまったくないのだから、これほどおもしろいものはない。ただ、天然ボケも度が過ぎると、時と場合によってはイラっとするが。

 閑話休題。「(笑)」の本来の使い方は、「冗談ですよ」「怒っているわけではありませんよ」「本気じゃないですよ」と伝えるためである。したがって、そのままでは相手に誤解されるおそれがあるときに使う。たとえば、「また酔っ払ってるんですか」と文字だけで発言した場合、非難している、または嫌味を言っていると受け取られるおそれがある。そんなときに「また酔っ払ってるんですか(笑)」とすれば、ずいぶん柔らかい感じになるし、「笑いながら(冗談で)言ってますよ」と伝えられる。発言内容がまじめなときやきつく響きそうな時こそが「(笑)」の出番だ。

 ただ、「(笑)」を付けたからといって、相手に絶対に不快感を与えないという保証はないので、極力使わないように心がけている。最近よく使われる「w」(「ww」「www」)は、「笑」の頭文字らしいが(私は What a wonderful world の頭字語だと思っていた)、これもあまり多用しないように注意している。本当は、「(笑)」も「w」も使わずに冗談を言っていることがわかるような書き方をするのがいちばんいいと思う。

お車の運転などは大丈夫ですか?

 12 時をちょっと過ぎていただろうか。税務署に行ったついでにその近くの王将に入る。店内はごった返している。けっこう広い店なのに満席だ。10 分ほど待つ。名前が呼ばれ、カウンター席に案内された。ミニ天津飯と餃子を注文する。最近、王将ではこの組み合わせばかり食べている。

 隣の席が空き、中年男性が座る。
「ミニラーメンとミニチャーハンと生ビール中」
とその男性が注文。「昼間っからビールか。ええなあ」などと思っていると
「お車の運転などは大丈夫ですか?」
と店員が聞く。この発言の意図はわかる。平たく言うと「車で来てないでしょうね。車で来てるんだったら飲ませませんよ」ということなんだろう。おそらく、車で来ていることを知っていながら飲ませたら、店側も法的な責任を問われるのだと思う。だから、アルコールを注文した客に対しては、車で来店していないことを確認することがマニュアルで決められているのであろうことは容易に想像できる。

 もちろん、車で来店していないことを確認することは重要なことなのだが、「お車の運転などは大丈夫ですか」は曖昧さの固まりのような質問だ。ひねくれて考えるなら、「ビールを飲んでもちゃんと運転できますか」と聞いているようにも解釈できる。あとで、問題になったときに、客は「ビールを飲んでもちゃんと運転できるかとは聞かれたけど、車で来ているなら飲ませないとは言われなかった」と言うかもしれない。

 法的責任という観点からすれば、「お車でご来店のお客様にはアルコール類は販売できない規則になっておりますが、お車でご来店ではないですよね」などと言うべきだ。しかし、ここまで言ってしまうと何だか上から目線っぽくてあまりいい感じはしない。「お車でご来店されてませんね」あたりが適当かもしれない。

 「お車の運転などは大丈夫ですか?」という質問はいかにも日本(語)的だ。「全部言わなくても、言いたいことはわかるでしょ。察してくださいね」的な要素が満載である。しかし、こういう曖昧さやふんわりした言い回しは日本人と日本語のいいところでもある。そんなことをぼんやり考えながら天津飯と餃子を堪能した今日のランチタイムだった。

「廿」という字は何と読む?

 昨夜深夜番組を見ていたら、「廿」という字は何と読むという問題が出されていた。広島県に廿日市(はつかいち)という市がある。ということは「廿」は「はつ」と読むんだろうか。しばらくして解答が発表された。「廿」は、単独では「にじゅう」と読むらしい(音読みでは「ニュウ」「ジュウ」)。試しに携帯で「にじゅう」と入力してみたら、確かに変換候補として「廿」が表示される。なんでも、「十」が横に2 つ並んでいるから「にじゅう」なんだそうだ。えっ!そういう冗談みたいな由来の漢字なのか。

 Weblio で「廿」を調べてみると、「熟字訓: 廿日(はつか)」となっている。そうか、廿日 = 二十日で、「はつか」と読むのであって、単独で「はつ」と「か」ではないのか。そして、こういうのを熟字と呼ぶのか。ひとつ賢くなった。

 漢字の読みと言えば、長年疑問に思っていたことがあった。浜 木綿子という女優さんがいるが、どうして「木綿子」と書いて「ゆうこ」と読むのか、ずっと疑問に思っていたのだ。名前、しかも芸名なんだから、どんな字を書いてどう読もうがかまわないのだが、それでも木綿子と書いて「ゆうこ」と読むゆう子さんにはこれまで出会ったことがない。

 この疑問をツイッターでつぶやいたところ、何人かの方に、それは植物の浜木綿(はまゆう)に由来しているんだと教えてもらった。そうか、植物の「はまゆう」は浜木綿と書くのか。しかし、廿日 = 「はつか」と同様、浜木綿を「浜」と「木綿」に分解するのは反則だ。浜木綿の場合、たまたま「浜」を単独で「はま」と読めるが、「木綿」は単独で「ゆう」とは読めない。聖 林吉と書いて、「はり うどきち」と読むようなものだ(聖林 = ハリウッド)。芸名の読みなので目くじらを立てることではないのだが・・・。

 いずれにしても、長年の疑問が解けてすっとした。漢字と漢字が組み合わさってまったく別の読み方をする日本語。難しくもありおもしろくもあり。漢字や日本語については、まだまだ知らないことがいっぱいあるんだろうな。ところで、「廿」を「にじゅう」と読むことは、広島県、とくに廿日市の人にとっては常識なんでしょうか。

発言した時点でパラドックス

 パラドックスとは、新明解国語辞典によると、「一見成り立つように思える言語表現などが、それ自体に矛盾した内容を含んでいて、論理的には成り立たないこと」だそうだ。例として、「貼紙厳禁」と書かれた貼紙や、「わたしはうそしかつかない」という表現が挙げられている。

 人間はみな考え方や価値観が異なる。すべての点において価値観や考え方が同じ人なんて、世の中にひとりもいない。人はどんな価値観を持ってかまわない。いろんな価値観や考え方を持つことが許されている。しかし、許されているということは、それが必ずしも正しいということではない。つまり、自分の価値観だけが正しくて、それ以外の価値観は間違っていると考えてはいけないということである。

 私は常日頃、「だれもが正しい」、「どの考え方も正しい」、「世の中にはこれだけが正解ということはない」と思っている。他者の考え方を批判・否定して得意になっている人を見るとちょっと違うんじゃないかと思う。自分の考え方や価値観を認めてほしいのであれば、他者の考え方を否定・批判してはいけないと思う。

 あるとき、他人の批判ばかりしている人を見て、「自分の考え方と異なるからといって、他者の考え方を否定・批判しちゃいけないよ」と言いたくなった。しかし、そう言うとしてはたと気付いたのだ。もしこのような発言をしてしまうと、「自分と異なる考え方や価値観は否定・批判してもよい」と考えている人やその考え方を否定していることになる。「他者の考え方を否定・批判してはいけない」と主張するのであれば、他者の考え方を批判・否定をする人も認めなくてはならない。つまり、このような主張をした瞬間にパラドックスになってしまうのである。

 世の中に、発言した瞬間にパラドックスになってしまうような主張があるとは思わなかった。したがって、この主張は決して口にすることなく、心の中で思うだけにしておく(しかし、そのことをここに書いてしまった以上、私はパラドックス的な発言をしたことになるのか?ややこしすぎるので、もう考えるのはやめにしておこう)。

 パラドックスと言えば、ワシントンの桜の木のエピソードを思い出す。子どものときに桜の木を切ったことを父親に正直に話したら、かえって誉められたという逸話である。これは、ワシントンの死後、伝記作家のメイソン・ロック・ウィームズが出版した『逸話で綴るワシントンの生涯』という本で創作した作り話であると言われている。つまり、メイソン・ロック・ウィームズは「嘘をついてはいけない」という教訓を教えるために嘘をついたことになる。パラドックスの見本みたいな行為だ。

 メイソン・ロック・ウィームズに限らず、言動が不一致な人はいっぱいいる。「言っていることとやってることが違うぞ」と指摘されないように、自分も注意しなくては(なかなか難しいことだけど)。

1 試合で少なくとも 51 人が死ぬスポーツ

 セ・リーグのジャイアンツに続き、昨日北海道日本ハムファイターズがパ・リーグの優勝を決めた。ダルビッシュが抜けた今年の日本ハムはあまり強くないだろうという、専門家の大方の評価を覆して見事に優勝。これから、クライマックス・シリーズ、日本シリーズと、野球ファンにとってはワクワクする季節がやってくる。

 野球に関して、以前から不思議に思っていたことがある。それは、野球用語にはやたら、「死」とか「殺」とか「刺」という物騒な文字が使われているとういうことだ。まず、1 アウト、2 アウトのことを日本語では、「一死」「二死」と表現する。「死」や「殺」が使われている野球用語には、ざっと思いつくだけで以下のようなものがある。

  • 補殺
  • 刺殺
  • 挟殺
  • 封殺
  • 併殺
  • 左バッター殺し
  • ひとり一殺
  • 三重殺
  • 牽制死
  • 盗塁死
  • 憤死

 また、1 番バッターのことを切り込み隊長、4 番(ホームラン)バッターを大砲・主砲などと呼ぶこともあり、野球ほど戦争を連想させるスポーツはない。日本における野球というスポーツは、1 回の攻撃で 3 人の死者を出すまでに(3 人の死者を犠牲に)、何人を無事自軍の砦(本塁)に生還させるかを競うというコンセプトに基づいている。元々英語のアウトには、死ぬとか殺すという意味はないと思われるが、なぜ日本ではこんなに戦争ちっくなスポーツになってしまったんだろう。野球が日本に入ってきたのは確か明治時代。このころの日本の風潮がそのまま反映されたんだろうか。

 野球のもう 1 つの不思議は攻撃と守備。もちろん、バットを持って球を打ち返す側が攻撃側と呼ばれるのだが、私には攻撃と守備が逆に思えて仕方がない。守備側の主役はピッチャー。当たりどころが悪ければ文字通り死んでしまうかもしれない 150 キロの球をバッターに向かって投げる。戦争に例えるなら、これは弾丸もしくは砲弾である。このような恐ろしいものを投げつけてくるのだから、これは明らかに攻撃である。それに、ピッチャーが行動を起こさない限り、バッターは何もできないの。主導権を握っているのはピッチャーだ。どう考えても、主導権を握っている側が攻撃側だと思う。

 攻撃を受けたバッターは、恐ろしい弾丸をバットで打ち返さないといけない。打ち返した弾丸が敵に直接取られたり、1 つ目の砦(一塁)に到達するまでに弾丸を砦に返されたりすると、バッターは刺殺される。このような攻撃をかいくぐって、どうにか生き残る率が 3 割を超えていれば一流バッターと呼ばれるのだからおもしろい。

 食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋、読書の秋など、秋にはいろんな修飾語が付くが、私にとっては、野球観戦の秋到来だ。

燃えるごみ、それとも燃やすごみ?

 どこの自治体でもそうだと思うが、ここ数年ごみの分別が細分化されている。当然わが家でも、市の定めた規則に基づいて、ビン、缶、ペットボトルなど、細かく分別して指定の日にごみを出している。ごみの分別と言えば、まず思い浮かぶのが「燃えるごみ」と「燃えないごみ」という分類だ。

 ところが先日、私のこの認識が覆される出来事があった。散歩をしていて、ごみの分類一覧のようなものを目にして驚いたのだ。「燃えるごみ」と「燃えないごみ」ではなく、「燃やすごみ」と「燃やさないごみ」に分類されているではないか。いつからこんな表現に変わったんだろう。それとも、全国的には今でも「燃えるごみ」と「燃えないごみ」で、こんな表現を使っているのは川西市だけなのか。

ごみの分別一覧

 「燃やす」とか「燃やさない」は市の視点で分類したものであり、市民の視点からではない。ごみを「燃やす」か「燃やさない」かは市民が決めることではなく、市が定めることである。つまり、ごみが物質的に「燃える」か「燃えない」かではなく、市が「燃やす」処理をするかどうかを決めているということを鑑みた表現なのかもしれない。論理的には正しい表現なのかもしれないが、私的にはどうも違和感がある。ほかの地域ではどうなんでしょうか。燃えるごみ、それとも燃やすごみ?

オレヤ様から電話

 私は身内の者に電話するのがあまり好きではない。他人に電話する場合は、まず「くにしろです」と名乗ればいいのだが、身内が相手だと何と言っていいのかわからないからだ。いちいち名乗らなくても、声とか話し方で認識してもらえだろうと思って、きなり用件を話し出すこともあるが、しばらくして「なんやあんたか」などと言われる。そういうわけで、仕方なく「オレや」とか「オレオレ」とか言ってしまことが多い。

 よく考えてみると、電話で「オレ」と名乗ることには何の意味もない。「声と喋り方から誰なのか認識してください」という音声信号としての役割を果たしているに過ぎない。しかし、おれおれ詐欺なるものが成立するくらいだから、世の男性の多くが私と同じように「オレや」とか「オレだけど」と言っているのだろう。

 会社勤めをしていたころ、新人の女性社員が「くにしろさ~ん。オレヤ様から電話で~す」と私宛の電話を取り次いでくれたことがあった。電話に出てみるとそれは社長だった。あとで電話を取り次いでくれた女性に事情を聞いてみると、「電話に出たら、いきなり名前も名乗らずに『くにしろ君おるか』と言われたので、『どちら様ですか』と聞いたら『オレヤ』と返ってきた」そうである。

 ある程度の期間働いている社員だったら、声や喋り方からそれが社長だとすぐに認識できるので、社長に「どちら様ですか」と聞くようなことはない。社員に「どちら様ですか」と聞かれることがめったにない社長も、予期せずにそう聞かれてとっさに「オレや」と答えてしまったんだろう。

 身内の者に電話するとき、多くの男性が「おれや」とか「おれおれ」と言うのを利用したのがおれおれ詐欺であるが、これには女性版もあるんだろうか?「わたしわたし」と言って、娘や孫を装って金をだまし取ったというニュースは聞いたことがない。それとも、そもそも女性は電話で第一声に「わたし」などと言わないんだろうか。どうでもいいことだけど、ちょっとした疑問。

めざしは魚にあらず

 私は、ふとしたことからことばの由来や物の名称が気になることがよくある。そして、いったん気になると、それを調べて解明しないと気がすまない。今日は、翻訳原稿で「目指す」ということばを目にした瞬間、魚の「めざし」は何かを目指した結果「目指し」と呼ばれるようになったんだろうかと、妙な疑問を抱いてしまった。そうであれば、めざしはロマンチックな魚である。

 調べてみると、めざしは「目刺し」であることが判明した。目に棒を突き刺した状態で売られていたから「目刺し」なのだそうだ。生物学的な特徴ではなく、人間の商業活動が名前の由来だったことを知り、何だか切なくなった。さらに、いろいろなサイトを調べているうちに、「魚の食べ物語源」というサイトで、「マイワシなどに塩をふり、数尾ずつ竹やわらで目のところを刺し連ねて乾かした食品」という説明を発見。なんと、目刺しは食品の名称であって、魚の名前ではないとのこと。目刺しの正体は鰯だったのだ。そんなこと全然知らなかった。こんなこと日本人なら誰でも知ってる常識なんだろうか。そうだとすれば、無知をさらけ出しているようで恥ずかしいが、知らないものは仕方がない。

 人間いくつになっても知らないことだらけだ。昨日は、「一期一会」は井伊直弼が作ったことばだという事実を知って、大きな声で「へえ~」と言ってしまった次第である。ことばの由来や隠された意味を知ることはいと楽しである。

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