発言した時点でパラドックス
パラドックスとは、新明解国語辞典によると、「一見成り立つように思える言語表現などが、それ自体に矛盾した内容を含んでいて、論理的には成り立たないこと」だそうだ。例として、「貼紙厳禁」と書かれた貼紙や、「わたしはうそしかつかない」という表現が挙げられている。
人間はみな考え方や価値観が異なる。すべての点において価値観や考え方が同じ人なんて、世の中にひとりもいない。人はどんな価値観を持ってかまわない。いろんな価値観や考え方を持つことが許されている。しかし、許されているということは、それが必ずしも正しいということではない。つまり、自分の価値観だけが正しくて、それ以外の価値観は間違っていると考えてはいけないということである。
私は常日頃、「だれもが正しい」、「どの考え方も正しい」、「世の中にはこれだけが正解ということはない」と思っている。他者の考え方を批判・否定して得意になっている人を見るとちょっと違うんじゃないかと思う。自分の考え方や価値観を認めてほしいのであれば、他者の考え方を否定・批判してはいけないと思う。
あるとき、他人の批判ばかりしている人を見て、「自分の考え方と異なるからといって、他者の考え方を否定・批判しちゃいけないよ」と言いたくなった。しかし、そう言うとしてはたと気付いたのだ。もしこのような発言をしてしまうと、「自分と異なる考え方や価値観は否定・批判してもよい」と考えている人やその考え方を否定していることになる。「他者の考え方を否定・批判してはいけない」と主張するのであれば、他者の考え方を批判・否定をする人も認めなくてはならない。つまり、このような主張をした瞬間にパラドックスになってしまうのである。
世の中に、発言した瞬間にパラドックスになってしまうような主張があるとは思わなかった。したがって、この主張は決して口にすることなく、心の中で思うだけにしておく(しかし、そのことをここに書いてしまった以上、私はパラドックス的な発言をしたことになるのか?ややこしすぎるので、もう考えるのはやめにしておこう)。
パラドックスと言えば、ワシントンの桜の木のエピソードを思い出す。子どものときに桜の木を切ったことを父親に正直に話したら、かえって誉められたという逸話である。これは、ワシントンの死後、伝記作家のメイソン・ロック・ウィームズが出版した『逸話で綴るワシントンの生涯』という本で創作した作り話であると言われている。つまり、メイソン・ロック・ウィームズは「嘘をついてはいけない」という教訓を教えるために嘘をついたことになる。パラドックスの見本みたいな行為だ。
メイソン・ロック・ウィームズに限らず、言動が不一致な人はいっぱいいる。「言っていることとやってることが違うぞ」と指摘されないように、自分も注意しなくては(なかなか難しいことだけど)。
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