[ことば] カテゴリー

ことばに関するさまざまな雑談


めざしは魚にあらず

 私は、ふとしたことからことばの由来や物の名称が気になることがよくある。そして、いったん気になると、それを調べて解明しないと気がすまない。今日は、翻訳原稿で「目指す」ということばを目にした瞬間、魚の「めざし」は何かを目指した結果「目指し」と呼ばれるようになったんだろうかと、妙な疑問を抱いてしまった。そうであれば、めざしはロマンチックな魚である。

 調べてみると、めざしは「目刺し」であることが判明した。目に棒を突き刺した状態で売られていたから「目刺し」なのだそうだ。生物学的な特徴ではなく、人間の商業活動が名前の由来だったことを知り、何だか切なくなった。さらに、いろいろなサイトを調べているうちに、「魚の食べ物語源」というサイトで、「マイワシなどに塩をふり、数尾ずつ竹やわらで目のところを刺し連ねて乾かした食品」という説明を発見。なんと、目刺しは食品の名称であって、魚の名前ではないとのこと。目刺しの正体は鰯だったのだ。そんなこと全然知らなかった。こんなこと日本人なら誰でも知ってる常識なんだろうか。そうだとすれば、無知をさらけ出しているようで恥ずかしいが、知らないものは仕方がない。

 人間いくつになっても知らないことだらけだ。昨日は、「一期一会」は井伊直弼が作ったことばだという事実を知って、大きな声で「へえ~」と言ってしまった次第である。ことばの由来や隠された意味を知ることはいと楽しである。

可愛そうが可哀相

 ある女性の写真を見て、「この人かわいそう」と思わずつぶやいてしまった。その女性のことを決して哀れだと思ったわけではない。その写真には、女性の顔は一部しか写っていなかったのだが、見えている一部の造作や全体的な雰囲気から、おそらくかわいいに違いないと思ったのである。

 「そう(だ)」という日本語には 2 つの用法がある。伝聞の「そうだ」と様態の「そうだ」である。前者は、他の人から聞いたり、読んだりして得られた情報を別の人に伝えるときに使い、後者はその時の様子や状態を自分の感覚や知識で判断するときに使う。

 形容詞の場合は、そのまま「そう(だ)」を付ければ伝聞用法になり、語尾の「い」を取って「そう(だ)」を付けると様態用法になる。たとえば、「この菓子はおいしいそうだ」が伝聞で、「この菓子はおいしそうだ」が様態である。この法則に従えば、「かわいい」の伝聞表現は「かわいいそうだ」、様態表現は「かわいそうだ」となる。しかし、「かわいそう」と言うと、普通は「哀れ」という意味に解釈されてしまう。この場合の「かわいそう」は、漢字で書くと「可哀相」であり、「可愛い」の様態表現「可愛そう」とは全く別のことばである。

 これまで、「可愛い」の様態表現「可愛そう」は文法的には正しくても、理論的にはありえないと思っていた。「おいしい」や「頭がいい」といった属性は、見た目や雰囲気だけでは断定できないものであるため、「おいしそう」や「頭がよさそう」といった推量の様態表現が成立する。しかし、「可愛い」とは見た目そのものの属性であり、自分の目で見れば可愛いか可愛くないかは判断できる。そいういう理由で、「可愛そう(=可愛いと思われる)」という日本語は論理的に成立しないのだと思っていた。

 今回の経験から、「可愛そう」が成立しそうな状況をいろいろ考えてみた。たとえば、近視の人が眼鏡をかけずにテレビを見ているとする。画面に女の子が映る。眼鏡をしていないのでぼんやりとしか見えないが、その人には可愛い女の子のように思える。このケースでは「可愛そうだ」と言えそうだ。また、ペットショップに犬を探しに行ったとする。檻の中に何匹も仔犬がいる。仔犬たちが重なり合っているため、顔がへしゃげてよく見えない仔犬がいるとする。普通に起き上がったら、おそらく可愛いとだろうと思われる仔犬である。この場合は、「この犬可愛そう」と言える。ほかにも、いろいろ「可愛そう」が使えそうな状況はあるのだが、きりがないのでこれくらいにしておく。

 「かわいく見える」と言おうとして「かわいそう」と言ってしまった外国人の失敗談は、笑い話としてよく耳にする。しかし、もし「可哀相」という同音異義語が存在していなかったら、「可愛そう」という表現は立派な日本語として大手を振って歩いてるような気もする。「可哀相」のせいで、間違い日本語代表のような扱いを受けている「可愛そう」が急に「可哀相」になってきた。

あんたなあ、ぼうっとしてたらあかんで

 最近、木村カエラのキシリッシュの CM が気持ち悪いという意見を Web 上でちらほらと目にする。彼女がしゃべる関西弁が気持ち悪いというのである(「木村カエラCMのエセ関西弁が気持ち悪い理由」を参照)。この CM だ。

 この CM、私は気持ち悪いどころか、どちらかと言うと好きだ。この CM で彼女が使う関西弁は確かにエセ関西弁だし、これが気持ち悪いという人たちの気持ちもわからないではない。しかし、その変な関西弁こそがこの CM の意図だと私は解釈している。この CM で木村カエラが演じているのは「キシリッシュ ガム星人カエラ」というキャラである。それならば、むしろ流暢な関西弁をしゃべるほうが不自然だ。関西弁が最も似合いそうにない木村カエラが、とってつけたような関西弁をしゃべっているところにおもしろさがあり、CM としてはよくできていると思う。

 木村カエラの関西弁が変だと言っても、それは非関西弁ネイティブの俳優・女優が映画やドラマなどでしゃべる変な関西弁と同程度であり、おそらく非関西弁ネイティブの人たちには、気付かない程度のレベルだと思う。この CM の関西弁を問題視するのであれば、関西を舞台にした映画やドラマを台無しにしている、大物俳優・女優がしゃべる変な関西弁のほうをもっと問題視すべきだと思う。せっかくの名場面で、変てこりんな抑揚で「あほなこと言わんといて」などと言われると、それこそずっこけそうになる。

 映画で使われる不自然な方言が気持ち悪いと感じるのはもちろん関西弁に限ったことではないだろう。たとえば、福岡を舞台にした映画で、変な博多弁が使われていたら、福岡の人たちははきっと気持ち悪いと思う。しかし、私にはその博多弁が変であることは分からないので、逆に映画を純粋に楽しむことができる。関西を舞台にした映画やドラマほかの地方よりも断然多い。ということは、ことばが気になって、映画を 100% 楽しめないという思いをいちばんしているのは関西人なのかもしれない。

言われて嬉しい誉めことば

 世の中には「ほめ達!」検定(ほめる達人検定)なるものがあるらしい。どのようなものなのか興味津々だ。どんな人でも誉められたら気分がよくなる。嬉しいに決まっている。だから上手に誉めることができれば人間関係やビジネスにおいて絶対にプラスになるはずである。

 ネットリサーチの「言われたら嬉しい誉めことば」に関するアンケート調査結果(第87回アンケート結果/ランキング調査による詳細結果報告【DIMSDRIVE】)で、男女別、世代別の「言われたら嬉しい誉めことば」のランキングが公表されている。男女、全世代をひっくるめた「言われたら嬉しい誉めことば」のベスト 10 は以下のとおり。

  1. 若々しい、若く見える
  2. かわいい
  3. 頑張ったな・頑張ってるな
  4. やさしい
  5. きれいだ
  6. かっこいい
  7. ありがとう
  8. さすが
  9. 気が利く
  10. すごい

 上記の誉めことば以外に、男性の場合は「頼りになる」や「頭(の回転)がいい」などが、女性の場合は「(料理が)おいしい」や「一緒にいてくれてよかった」などがランキングに入るが、「かっこいい」と「かわいい・きれい」が同義語であると考えれば、だいだいよく似た結果である。

 ネットリサーチのアンケート調査は男女別、世代別に行われているが、もし地域別の調査結果を出したら、関西では男女、世代を問わず、「おもしろい」が絶対上位にランキングすると思う。特に男の場合は、「かっこいい」ことも重要だが、「おもしろい」ことにかなりの価値を置いていると思われる。私も「おもしろい」と言われたら、悪い気はしない。

 さて、私の「言われて嬉しい誉めことば」は、残念ながらどの世代でもどの性別でもランキングされていない。もちろん、私も見た目や容姿のことを誉めらたら嬉しいが(残念ながら、誉めてくれる人はほとんどいないが)、それよりもっと嬉しいことばがある。それは、「センスがいい」である。ランキングに入っているほかの誉めことばは、客観的な評価の場合もあるが、「センスがいい」は、その人の主観がかなり入っているような気がするからだ。

 たとえば、「あなたの撮る写真はセンスがいい」は、「あなたの写真が好きだ」と同義語だと思う。「ファッションセンスがいい」と言う場合も、その人のファッションが好きだという意味である。しかも、それがいいことはわかっていても、自分には真似できないという意味も含有されているような気がする。そういう意味で、「センスがいい」と言われると、全面的に肯定されたような気がして、とても嬉しくなる。

 「センスがいい」と言ってもらえる機会はあまりないが、「ファッションセンスがいい」は若いころに何度か言われたことがある。最近は、ツイッターで「ツイートのセンスがいい」と言ってくださった方が何人かいた。くだらないことばかりつぶやいていると思っている自分としては、「ツイートのセンスがいい」とは、具体的にどういうことなのかよくわからないが、どんなことでも「センスがいい」と言われると小躍りしたくなるほど嬉しくなる。

 「センスがいい」と言われると嬉しい理由はもう 1 つある。「センスがいい」は「重要なポイントがわかっている」ということだと思うからだ。「ビジネスセンスがいい」と言えば、「ビジネスにおけるポイントがわかっている」ということである。笑いのセンスがいい人は、どのように言えば人がおもしろいと思うかを知っている人である。

 関西人は「おもしろい」ことに高い価値を置いていると書いたが、おもしろいことを言うにもセンスが要る。ただただバカなことを言っているだけではおもしろくないのだ。だから、関西では、ある意味「おもしろい」=「頭がいい」なんだと思う。ある人が、「センスっていうものはいろんなところに出る」と言っていた。つまり、ある分野でセンスがいい人は、ほかの分野でもそのセンスのよさが出るのだという。私も、これはある程度正しいと思う。すべての分野でセンスがいい人は存在しないが、ビジネスセンスに優れている人は、会話のセンスやジョークのセンスにも優れていることが多いと思う。

 「言われたら嬉しい誉めことば」のランキング 1 位は「若々しい、若く見える」(男性全体でも 1 位、女性全体では 2 位)。当然ながら、世代が上になるほどこの項目の順位は上になる。やっぱり誰しも若く見られたいんですね。私も、「年相応に若く見えるセンスがいい人」を目指して日夜がんばることにする。 

それって本当に流行語?

 今年も恒例の流行語大賞が発表された。見事大賞に輝いたのは「なでしこジャパン」とのこと。ほかに候補に挙がったことばは、「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「絆」「こだまでしょうか」「どじょう内閣」「ラブ注入」「スマホ」「どや顔」などらしい。

 以前から思っていたことなのだが、果たしてこういうことばは本当に流行語と呼べるんだろうか。流行語と聞いて私が思い浮かべるのは、「がちょ~ん」「お呼びでない」「ちょっとだけよ」「おしゃまんべ」「当たり前田のクラッカー」「どろんする」「シェー」といったことばだ。残念ながら、古いものしか思いつかなかったが、多くの国民に長期に渡って浸透し、何かにつけて使われていたことばである。

 それに対して、「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「どじょう内閣」「スマホ」などは、今年話題になったり注目を集めたりした事象であり、何かのおりにそれを口にするといった類のものではない。そういう意味で言うと、今年の候補の中で「流行語」と呼んでも差支えがなさそうなものは「ラブ注入」しかないような気がする。「ラブ注入」が、老若男女を問わず、どの世代にも広く浸透したかどうかは別として。

 多様化がますます進む現代社会では、昔のように世代に関係なく誰もが知っているような流行語というのものはもう生まれないのかもしれない。最近では、世代を超えてだれもが歌えるようなヒット曲がほとんど生まれなくなったのと似ている。裏返して言えば、昔は娯楽の選択肢が少なかったため、みんなが同じものを見て同じように興じていたということである。楽しみや娯楽が多様化し、各人がそれぞれの楽しみを持てる今の時代と、どちらのほうがいいのかはよくわからないが。

 今年最も印象に残った出来事や事象という意味では、「なでしこジャパン」が大賞を受賞したのは妥当だと思う。このあとの年末の恒例行事といえば今年の漢字。今年はどんな漢字が選ばれるんだろうか。今年も残りわずか。終りよければすべてよしにしたいものである。

パソコン要らないやつ

 やるべきことを次から次へとこなしているのに、私の「やること」リストはいつまでたってもきれいにならない。厳密に言うと、「やること」リストの項目は、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」に分かれる。「やりたいこと」は放っておいてもやるので、リストにいつまでも残るのは、当然「やらなければならないこと」ばかりになる。

 早いもので、今年もあとわずかであわただしい年末がやってくる。この時期の「やること」リストの項目で、最もやっかいなものが年賀状書き。以前は、私の年末の「やること」リストにも「年賀状」の文字がいつまでも残っていたのだが、数年前に年賀状を書くのをやめることに決めてからは、その重圧から完全に開放された。一度書くのをやめてしまうと、再びあの重圧を味わうのはもうゴメンだと思う。「今年は久しぶりに会いたいですね」みたいな白々しいコメントを書くのが嫌になったことも年賀状を書くのをやめた理由の 1 つである。

 「『新年おめでとう』はNG? 震災で年賀状に異変‎(日本経済新聞)」によると、東日本大震災の影響を受けて、「おめでとう」や「謹賀新年」といった文言を使っていいものかと悩む人が増えているという。しかし、「おめでとう」や「謹賀新年」は決まり文句みたいなものなんだし、そこまで気にする必要があるんだろうか。被災していない人に出すのであれば、別に問題はないと思う。今回の震災で被災した知り合いに出すのであれば、同じデザインのものに、ねぎらいのことばを書き加えればいいのではないだろうか。

 年賀状といえば、最近気になるのが EPSON の Colorio Me の CM 。この CM で黒木メイサさんは、「これお土産。パソコン要らないやつで~す」と言っている。私は最初、「パソコン要らないやつ」は「要らなくなったパソコン」という意味だと思っていた。要らなくなったパソコンを娘が母親に持ってきたんだと思っていたのだが、「パソコンを必要としないプリンター」という意味であることが判明。「パソコン要らないやつ」は「不要なパソコン」と「パソコンを必要としないやつ(プリンター)」の 2 とおりに解釈できる。もちろん、目くじらを立てるほどのことではないのだが、こういう些細なことが気になる。きっと職業病だ。

 Colorio を使うと、印刷業者に頼んだようなきれいな年賀状ができあがるようである。年賀状を出さない私にそんなことを言う資格はないのかもしれないが、そこまできれいなものができるのであれば手作りする必要があるんだろうか。プリントごっこのような、手作り感が漂うものであればある程度意味があると思うのだが。



小唄にまつわるエトセトラ

 以前のエントリー「細胞に浸み込んでいる歌」で、私の細胞には『琵琶湖就航の歌』が浸み込んでいると書いたが、私の細胞のもっと奥深くには、別の歌が浸み込んでいるかもしれないと思い始めた。おりに触れ、その歌を口ずさんでいることに気付いたのだ。

 私の口をついて出るのはある歌の一節。「恋にもいろいろありまして、ヒゴイにマゴイは池の鯉」と「好きで好きで大好きで、死ぬ程好きなお方でも」という一節である。前者は『まつの木小唄』、後者は『お座敷小唄』だ。何となく切なくてきゅんとしてしまう歌詞が、若いころから何となく好きだった。

 小唄と名が付くものは、『まつの木小唄』と『お座敷小唄』以外では、『ラバウル小唄』と『軍隊小唄』が思い浮かぶ。ほかにどんなものがあるのか、YouTube で検索してみたら『海軍小唄』という小唄を発見。再生してみると、「汽車の窓から手を握り、送ってくれた人よりも」という歌詞が流れる。どこかで聴いたことがある歌詞とメロディだと思ったら、ドリフターズの『ドリフのズンドコ節』だ。もちろん、『海軍小唄』のほうが元歌である。

 そもそも、小唄とは何なのか。気になったので調べてみると、新明解辞典では「端唄((ハウタ))の一種。短い歌詞を三味線の伴奏で歌うもの」となっている。端唄とは何だ。同辞典によると、「技巧の少ない自由な形式の短い俗謡。多く三味線に合わせて歌う」歌らしい。よくわからないので、コトバンクで調べてみると、以下のように定義されていた。

明治末期から昭和にかけて、主にレコードで用いられた流行歌謡の分類。俗曲・小唄2・民謡などの調べを持つもののほか、新作も多く、内容は多様。(小唄@コトバンク

 わかるような、わからないような説明であるが、要するに昔の流行歌ということか。

 『お座敷小唄』の歌詞について、長い間ずっと疑問に思っていることがある。以下の歌詞についてである。

富士の高嶺に 降る雪も
京都先斗町に 降る雪も
雪に変わりは ないじゃなし
とけて流れりゃ 皆同じ
お座敷小唄 松尾和子&和田弘とマヒナスターズ 歌詞情報 - goo 音楽

 疑問に思うのは、「雪に変わりは ないじゃなし」という部分。「とけて流れりゃ皆同じ」と続いているのだから、「どこに降る雪であろうと、雪に変わりはない」という意味である。それならば、「雪に変わりがあるじゃなし」となるべきだと思うのだが。「変わりはないじゃなし」だと、「変わりがないことはない」、つまり「富士山に降る雪と、京都先斗町に降る雪は、同じ雪ではない」という意味になってしまう。話しことばで、「変わりがないんじゃない?」と語尾を上げれば、「変わりはない」という意味であるが、「ないじゃなし」はそのようには解釈できない。どうもすっきりしない。




参考・参照サイト

受信トイレとウンコの力

 「空目(そらめ)」ということばを初めて知ったのは 2 年ほど前である。ツイッターで誰かが「~を~に空目」と使っていたのを見たのが最初だったと思う。「『ひまつぶし』を『ひつまぶし』に空目した」とか「『about』を『adult』に空目」のような使い方がされている。要するに A を B に読み間違えたという意味である。

 私はこれまで生きてきて、この「空目」ということばを聞いたことがことがない。だから、きっと若者ことば、もしくはネットスラングの類なんだろうと思っていた。ところが、先日ツイッターで「『受信トレイ』という文字を見るたびに、心の中で『受信トイレ』と言ってしまう」とつぶやいたところ、同年代の同業者の方から、「『トレイ』の空目率はほぼ90%以上。同じくらい空目率が高いのは、なんといっても『ウコン』」というリプライをいただいた。

 ひょっとして、「空目」は若者ことばでもネットスラングでもなく、誰もが知っている普通の日本語なんだろうか。確認のため広辞苑を引いてみる。

そら‐め【空目】
(1) 見えないのに見えたように思うこと。また、見あやまること
(2) 見て見ないふりをすること。
(3) 黒目を上にあげて見ること。うわめ。
(4) どこを見るともない、うつろな眼つき。

[広辞苑 第四版]

 むむむ。広辞苑に、しっかり「見あやまること」と定義されているではないか。こんなことばも知らなかったなんて、翻訳者失格?

 私は仕事においてもたまに空目をやらかす。原稿の文字を空目してしまうことがあるのだ。しかし、たとえば「about」を「adult」に空目したとしても、意味不明な訳文になってしまうので、空目していたことがすぐに判明する。だから、たいていの場合は大事には至らない。厄介なのは、PGL のような特に意味がない頭字語だ。長い単語の場合はコピペするのでミスをすることはないのだが、3 文字くらいの頭字語だと、コピペするより直接タイプするほうが速いので、タイプ時に空目ミスが発生する。

 たとえば、原稿に「TKG」と書かれていても、私の脳内で「TGK」に変換され、何度「TKG」を見ても「TGK」とアウトプットされてしまう。たいていの場合は途中で気付いて修正するのだが、先日このような 3 文字の頭字語を空目ミスしたまま納品してしまい、いたって恥ずかしい思いをした。あとになってみれば、どうしてこんな簡単な文字列を空目してしまったんだろうと不思議に思う。何かいい「空目」対策を考えないといけない。

 昔、升田 幸三という棋士が名人戦で勝利を目前にしながら、勘違いから悪手を指してしまい、大逆転負けを喫したことがある。そのときに升田 幸三が言ったことばが「錯覚いけない。よく見るよろし」だった。今後空目ミスをしないように、自分にも「錯覚いけない。よく見るよろし」と言い聞かせておいた。

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かわいくなくない?

 先日テレビで『踊る!さんま御殿!!』を見ていたときのこと。AKB 48 の何とかいう女の子(名前はわからない)がトーク中に「かわいくなくない?」というフレーズを使っていた。さんまさんが、「『かわいくなくない?』って『かわいいよね』っていう意味やんなあ」と聞く。私も「~なくない」は「ない」と「ない」の二重否定で肯定になるのだと思っていた。ところが、AKB 48 のその女の子によると、「かわいくなくない?」は「かわいくないよね」という意味になるとのことだった。

 説明を聞いて、なるほどと思った。「~ない?」という表現は、断定を避けて相手の同意を求めるときに使う。たとえば、ある商品が、その品質や量にしては高いと思ったときに、「これって高くない?」と言う。「高い」と断定するのではなく、「私は高いと思うけど、どう思う?」と相手の意見を求める表現だ。そうすると、「高くないと思うんだけど、どう思う?」とか「高くないよね」という気持ちを表したいときは「高くなくない?」になる。この「なくない?」という表現、最近の若者ことばの中では、珍しく理論的におかしくなくない? 

 「~なくない?」の意味と使い方を理解して、すっかり悦に入っていたのだが、よく考えてみると、私には「~なくない?」などというフレーズを使う人と会話する機会がない。また、自分がそんなフレーズを発したら、変な目で見られるに違いない。だから、「~なくない?」を理解して使えるようになっても、何の意味もないことに気付いた。いや、それ以前の問題として、「~なくない?」どころか「~ない?」すら使ったことがない。

 たとえば、「これって、高くない?」をおじさん用の関西弁に変換すると、「これ、高いんとちゃうん」といったあたりになると思われる。そうすると、「これって、高くなくない?」は、「これ、高ないんとちゃうん」あたりだろうか。少なくとも私には「~ない?」や「なくなくない?」よりも、こっちのほうがしっくりくる。関東のおじさんたちは、「高くない?」や「高くなくない?」をどう表現しているのか興味津々。まさか、そのまま「高くない?」「高くなくない?」ではないですよね。

 ことばの勘違いと言えば、今日の昼食時におもしろい場面に遭遇した。松屋で、あるおじさんが店員に食券を渡していた。
「牛めし弁当 1 つですね」と店員が確認する。
「違う違う。牛めし弁当やない。食券間違えて買うてしもたんや。ほんまは牛丼弁当が欲しいんや」
そのおじさんは、牛めしと牛丼は別物だと思っているらしい。
「松屋では、牛丼のことを牛めしと呼んでるんです」
店員に、「牛めし」と「牛丼」は同じものであることを何度も説明されて、ようやく理解していた様子だった。このおじさんの気持ちもわからないではない。「牛丼」は一般名詞であり、「牛めし」は松屋の商品名。いわば固有名詞みたいなものだ。勘違いしても仕方がない。

 ところで、松屋の牛めし(並)は、全国的には 320 円らしいが、近畿地方では常時 250 円である。いくらなんでも、250 円は安すぎるような気がする。景気がよくなって、デフレスパリラルから脱却し、松屋の牛めしが 350 円から 400 円くらいで売られる世の中に 1 日でも早くなることを願う。

一生に一度のお願い

 「なあ、一生に一度のお願いやから」。子どものころ、このフレーズを何回使ったことだろう。少なくとも 100 回は使ったと思う。もちろん、お願いの内容は取るに足らないものばかりだ。「一生に一度のお願い」とは、要するに普通よりはちょっとだけ強いお願いである。

 「一生に一度のお願い」を連発していたのは、せいぜい小学生くらいまでで、中学生または高生になってからは、一度も使ったことはないと思う。一生に一度のお願いは、そんなに軽々しくするものではないことを悟ったのか、それ以外の理由があったのかはよく覚えていないが。

 「一生に一度のお願い」と似たフレーズに、「後生だから」がある。後生とは来世のことらしい。つまり、今世での「一生に一度のお願い」だけでは足らずに、来世の分まで前借りしてお願いするという意味らしい。「後生だから」と言ってお願いするような人は、かなり虫がいい人ということになる。

 閑話休題。「一生に一度のお願い」をしなくなって、もう何十年にもなる。もし神様が、一生に 1 つだけ何か願いをかなえてくれるとしたら、私は何をお願いするだろうか。まず思い付くのは、「一生遊んで暮らせるだけのお金をください」だけど、お金で買えないものもある。愛がお金で買えるか買えないかについては、必ずしも買えないとは言い切れないと個人的には思うが、命がお金で買えないことについては議論の余地がない。だから、一生に一度のお願いは命が危うくなったときに使うべきなのかもしれない。しかし、問題なのは、だれの命が危うくなったときにお願いを発動すべきなのかという点だ。自分の命か、それとも大切な人の命か。

 日がずいぶん長くなった。今くらいの季節は、夕方がいつまでも明るくて気持ちがいい。それほど暑くもないところもいい。最高のビール日和だし、こんな夕方は「一生に一度のお願いやから、ビールのあてに餃子焼いて」とお願いしてみようか。

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