[ことば] カテゴリー

ことばに関するさまざまな雑談


飴ちゃんとお猿さん

 関西、特に大阪のおばちゃんの特性の 1 つとして、飴を携帯する性質が挙げられる。そして、大阪のおばちゃんたちは飴のことを「飴ちゃん」と呼ぶ。これは関西だけで見られる現象のようであるが、なぜ飴は「ちゃん」付けで呼ばれるのか。不可解である。ほかに「ちゃん」付けで呼ばれる食べ物としては、マロニーちゃんがあるが、これは商品名なので飴ちゃんと同等に扱うのはちょっと違うような気もする(「マロ二ーちゃんは、なぜに「ちゃん」呼び?」を参照)。関西限定ではあるが、大人どうしの会話において、「ちゃん」付けで呼ぶことが許されている食べ物は飴しかないと思われる。

 「ちゃん」ではなく、「さん」付けで呼ばれる食べ物なら、お豆さん、お芋さん、お粥さん、おいなりさん、おあげさんなどが思い浮かぶ。共通点は、「お」が付くことである。「お芋」や「お粥」など、「さん」を付けずに「お○○」だけでも成立することも共通点。ただし、飴ちゃんは「お飴」とは呼ばない。

 動物に対しても同じようなことが言える。象、キリン、ウサギなどは「さん」付けで呼ばれる。トラやサイなどは、たいてい呼び捨てだ。犬も普通呼び捨てである。ワンちゃんと呼ぶことはあるが、犬ちゃんとか犬さんとは呼ばない。正式な名称に「ちゃん」を付けで呼ぶ動物は思い付かない。猫は、かろうじて猫ちゃんや猫さんと呼べるような気がしないでもないが、普通はニャンコとかニャンコちゃんだと思う。ちゃん付けで呼ぶ例としては、ウサちゃんがあるが、これもどちらかと言うと、ワンちゃんの用法に近い気がする。

 動物の中で特別な扱いをされるのが猿である。猿については、食べ物と同じように、「お」付きで、「お猿さん」と呼ぶ。「さん」を付けずに「お猿」と呼ぶことがあるという点も食べ物とまったく同じである(「お猿」とは呼んでも、「お」抜きで「猿さん」と呼ぶこともあまりない)。

 どうして、飴だけが「ちゃん」付けで呼ばれるのか。どうして猿だけが、食べ物と同じ扱いをされるのか。呼び捨てと「さん」と「ちゃん」の使い分けの基準は何なのか。考察するつもりでいたのだが、疑問は深まる一方である。金田一先生、教えてくださいませ。

美人○○ とイケメン○○

 「美人すぎる市議」と呼ばれている藤川優里氏 (31) が、青森県八戸市議に再選されたようである。けちを付けるわけではないが、藤川優里氏は決して美人「すぎる」ことはないと思う。美人であることは否定しないが。

 マスコミが「美人○○」とか「イケメン○○」という表現を使い始めたのはいつごろからだろうか。今ではすっかり聞き慣れてしまい、本来の意味が薄れつつある。最近では、本当に美人だったりイケメンだったりするケースは少なく、「これのどこか美人(イケメン)なんだ?」と首をかしげることも多い。

 ところでイケメンというのは何の略だろうか。私はずっと「いけてる面(顔)」だと思っていたのだが、Wikipedia によると、「『イケてる』+『面』または『イケてる』+ 英語『men』の意味」とのことである。イケてる men という意味もあるのであれば、必ずしも美男子である必要はないのか。

 閑話休題。最近では、美人○○やイケメン○○が、本当は美人やイケメンではないことは誰もが知っている。これは、単に性別を区別するためのまくらことばのようなもので、「女性教師」と書く代わりに「美人教師」と書いているに過ぎない。だから、本当に美人であることを強調するために、「美人すぎる」という表現が必要になったんだろう。

 こういうことが浸透してくると、美人とかイケメンとかいうことばの価値がどんどん落ちてくる(もともと「イケメン」にはそれほど価値がないか)。「美人」が「女性」を表し、「美人すぎる」が「美人」を表すとすれば、「本当に美人すぎる」はどう表現するのだろうか。そもそも、美人に「過ぎる」ということがあるんだろうか。「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、「美人過ぎる人」は本当は魅力的ではないのかもしれない。美人もイケメンもそこそこがいい。非のつけどころがない美人よりも、ちょこっと欠点がある顔のほうが私は好きだったりする。

あなたみたいなひよっこで大丈夫なの?

 マツケンこと松山ケンイチ君と小雪さんの結婚が世間の話題になっている。私は、芸能人の結婚や離婚にはまったく興味がないので、特に感想はない。「ああ、そうですか」といった程度。私は、芸能人の○○ と○○ が夫婦であることを知って驚くことがしょっちゅうあるのだが、「なんでそんなことも知らんの?」と言って妻に叱られる。別に叱られるようなことではないと思うのだが・・・・・・。

 マツケンも小雪さんによく叱られているそうだが、どんなことで叱られてるんだろうか。そんなことを公の場で発表してしまったら、また「そういうことを言ったらダメ」と小雪さんに叱られるんじゃないかと、他人事ながら心配になったりする。

 今日書きたかったのは、マツケンが小雪さんに言われたという「あなたみたいなひよっこで大丈夫なの?」という台詞について。これって、結婚を申し込まれた人が申し込んだ人に対して言うことばだろうか。第三者が小雪さんに対して、「小雪さん、マツケンみたいなひよっこで大丈夫なの?」と言うのであればわからなくない。小雪さんの自分に対する問いかけであってもかまわない。

 だいたい、ひょっこであるマツケンで(マツケンを結婚相手に選んで)大丈夫なのかどうかは、小雪さんの問題であって、マツケンの問題ではない。だから、大丈夫かどうかをマツケンに聞くのはおかしい。実際には、「あなたみたいなひよっこで大丈夫なの」みたいな内容のことを言われたということであり、小雪さんが実際にこのとおり言ったわけではないとは思う。ちょっと細かいことを言ってみたくなったということで、私のいちゃもん戯言をお許しください。

 ところで、マツケンのデフォルトが松平健から松山ケンイチに変わったのはいつのこと?

「ちょける」と「おちょける」の謎

 大阪生まれ、尼崎育ちの生粋の関西人である女優の牧野エミさんが、ラジオで「おちょける」という表現を使っていた。日常的に使ったり聞いたりすることばでないが、私にとって「おちょける」はなじみがないことばでなかったし、意味も知っていた(「ふざける」という意味)。関西人ならだれもが知っている、標準関西語だと思っていた。

 ためしに、普段使っている新明解国語辞典と広辞苑を引いてみてが、どちらもに「おちょける」は記載されていなかった。関西弁だから載っていないのかと思って、Weblio で調べてみたら名古屋弁で「ふざける」の意味だと記載されている。関西弁だと思っていたのに、名古屋弁だとはびっくり。このことをツイッターでつぶやいたら、意外にも多くの反応があった。

 私と同じ三重出身の関西在住の方からは、「三重では『ちょける』は使っていたけど、関西では聞いたことがない」という情報をいただいた。また、関西のほとんどの方は、「ちょける」も「おちょける」も聞いたことがないという。また、「ちょけた兄ちゃん」など、「ちょけた」という形容詞はあるけど、動詞として「ちょける」はないという意見もあった。和歌山(白浜)の方は、「おちょける」をよく使うという。

 再度、Weblio で「ちょける」を引いてみると、三重県四日市市と大阪の方言だと記載されている。意味は「おちょける」と同じで「ふざける」だ。

 私はこれまで、三重で 19 年、愛知で 4 年、大阪で 10 年、兵庫で 18 年暮らして来た。 だから、「おちょける」や「ちょける」を知っているといっても、どこにいるときにそれを聞いて使っていたのかは、不明確な部分がある。ひょっとして、「ちょける」や「おちょける」は三重が本家本元なのかもしれない。名古屋が本家ということもありえる。でも、Sooda というサイトの「ちょける」に関する質問のページでは、「ちょける」も「おちょける」も関西弁だと解説している。

 「ちょける」と「おちょける」はいったいどこのことばなのか。謎は深まるばかりである。ちなみに「ちょける」の標準語は「ちょうける」らしいが、「ちょうける」こそ聞いたことがない。 

せいてせかん

 震災後、仕事が大幅に減るのではないかと心配していたのだが、今のところ震災前と変わらないペースで仕事が来ている。むしろ、急ぎで難しい仕事が多くなり、ここ 1 カ月ほど、ずっと「急かされてる」感があった。昨日、急ぎの案件を納品して、ちょっと一息ついたところである。仕事がなくなったり激減したりして、大変な思いをしている人がいることを考えたら、とてもありがたいことである。この先どうなるのか少し不安ではあるが。

 最近のマイブームは寝る前の読書。もっぱら田辺聖子さんのエッセイ集を読んでいる。その日の眠さの度合いに応じて、2 編から 5 編くらい、10 分から 30 分くらい読書を楽しんでいる。おせいさんのエッセイの特徴は、ところどころに関西弁や大阪弁の解説が盛り込まれていることだ。田辺さんの大阪弁講座はわかりやすくて、ためになる。

 今読んでいるのは『楽老抄 IV そのときはそのとき』。この本で紹介されていた大阪弁で、ふむふむと思ったのが「せいてせかん」ということば。聞いたことはあるが使ったことはない。大阪(関西)弁とはいっても、若い人が使うことばではない。使っても違和感がないのは、60 歳から 70 歳以上の生粋の関西人だろうか。

 「せいてせかんのやけど」とか「せいてせかん話やけど」などと言われたら、「急く」のか「急かない」のか、どっちだと思うかもしれないが、超要約してしまうと「急く」ということになるらしい。しかし、このことばの意味を正確に表そうとすると、恐ろしく説明的になるようである。

 これとよく似たことは翻訳でも経験する。1 つの英単語を正確に日本語に訳そうとすると、数行に渡る説明が必要になることがある。あまり説明的な訳文にすることもできないので、まだ日本語として定着していないカタカナ語を使ったり、意味がある程度近い日本語に置き換えたりしている。

 閑話休題。「せいてせかん」は「願わくは」という願望と相手への心くばりを込めたことばらしい。あえて標準語にするなら、「せいているようで、せいてはおりませんが、相なるべくは、せいて下さると、誠にありがたいのですが」になるとのこと。つまり、本音は「急いているのだけど、それをはっきり言ってしまうと身もふたもないので、ちょっと遠慮気味に言っているが、そこらあたりを察して、なるべく急いでくださいよ」だ。何と奥が深い言い回しだ。

 私はこの「せいてせかんのやけど」というフレーズを使ってみたくてうずうずしているのだが、たかだか関西在住 25 年の 50 歳の「若造」が使うには、ちょっと敷居が高い言い回しである。10 年後、いや 20 年後にはこのフレーズを違和感なく言える老人になりたい。しかし、そのころにはこのことばの真意を理解してくれる人がいくなっているかもしれない。いと悲し。

 この週末の予定は小さ目の仕事が 1 つ入っているだけである。願わくは、週末は少しゆっくり過ごし、また週明けから大き目の仕事に取り組みたい。もちろん「せいてせかん案件」も大歓迎だ。

 福島原発の問題は、相変わらず先が見えない。まさか事故発生時に管総理が「せいてせかんのやけど」という前置きを付けて指示を出したことが、問題が大きくなった原因じゃないでしょうね。

4087712958楽老抄(4)そのときはそのとき
田辺聖子
集英社 2009-06-05

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1,000 円からお預かりします

 スーパーなどのレジで、「1,000 円からお預かりします」と言われると、イラッとして、「1,000 円から預かるんじゃなくて、1,000 円預かるんだろ」と心の中でつぶやいてしまう。「1,000 円ちょうどからお預かりします。レシートのお返しになります」などと、わけのわからないことを言う人もいる。「1,000 円から買い物の代金を差し引くと、レシートになるのか」と突っ込みたくなる。もちろん、いやなオヤジだと思われたくないので、何も言わないが。

 もう 30 年近くも前のことになるが、学生のときに地元のジャスコでアルバイトをしていたことがある。時々レジを担当することもあったが、当時は「1,000 円から預かる」のような妙な言い回しをする人はいなかったと思う。接客用語として特に教えられたわけではなかったが、社員やパートのおばさんたちの言い方を倣って次のように言っていた。

おつりが必要なとき: 1,000 円お預かりします。○○ 円のお返しです。
おつりが不要なとき: 1,000 円ちょうど頂戴します。

 たとえば、買い物の代金が 780 円で、お客様が 1,000 円を出したときには、1,000 円から買い物代金 780 円を頂戴することになるので、いったん 1,000 円を預かることになる。しかし、買い物代金が 1,000 円で、お客様が 1,000 円を出した場合は、1,000 円を預かるわけではない。この場合は、1,000 円をそのまま全額頂戴することになるので「1,000 円ちょうど頂戴します(いただきます)」と言うのが正しい。

 どうして、「~から預かる」という妙な言い回しが生まれ、それが幅を利かせるようになったんだろうか。昨日、偶然『愉快な日本語講座』という本を読んでいたら、この言い回しに関する記述があり、その疑問が解けた。この本の著者、添田 健治朗教授によると、これは混交によって生じた現象だとのこと。以下は、同書からの引用。

 混交とは、似たような場面において、似たような形の表現が複数聞かれるような場合に、そのそれぞれの語の要素の前半部と後半部とが、発話の流れに沿って混ざり合っていく現象で、話し手の心理が働いて生み出された言語変化の一つなのである。

的を射た x 当を得た = 的を得た
汚名返上 x 名誉挽回 = 汚名挽回
喧々囂々(けんけんごうごう) x 侃々諤々(かんかんがくがく) = 喧々諤々(けんけんがくがく)
(後略)

「1,000 円からお預かりします」は、次のような混交によって発生したのではないかとのとこ。

1,000 円から頂戴します x 1,000 円お預かりします = 1,000 円からお預かりします。

 なるほどねえ。これは説得力がある説明だ。納得。しかし、このような妙な言い回しが発生した理由がわかることと、それを使ってもいいか否かは別問題である。汚名挽回や喧々諤々が間違いであるのと同様、「1,000 円からお預かりします」も間違った日本語である。こんな言い方は許してはならない。世の中から、「~ から預かる」が撲滅されることを切に願う。

4093875804愉快な日本語講座
添田 建治郎
小学館 2005-06

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まだまだ生まれたくない

質問: 砂漠にいます。そこには越えられない壁があります。どうしますか。
(この質問の意味についてはのちほど)

 生前ということばがある。「生前はお世話になりました」などと使う。よく考えてみると妙なことばである。生前とは文字どおり解釈すると、生まれる前という意味になる。「生きていたとき」という意味で使いたいなら、死前、存命中、生存中などと言わないといけない。

 どうして生前というのか。気になったので調べてみたところ、仏教由来の表現であることが判明した。「死ぬ」を意味する表現に「往生」ということばがある。「往生」は広辞苑では、次のように定義されている。

往生
[仏] この世を去って他の世界に生れかわること。特に、極楽浄土に生れること。

 つまり、生前とは極楽浄土に生まれる前という意味のようだ。そうか。私たちはまだ生まれていなかったんだ。知らなかった。

 人間はいつか必ず死ぬ。大金持ちでも、権力者でもこれを避けることはできない。また、科学がどれだけ進歩しても、不老不死を手に入れることはできない。私が初めて、人は死ぬということを認識し、そのことについて考えたのは 10 歳くらいのときだったと思う。死ぬとどうなるんだろう。天国って本当にあるんだろうか。そんなことをずっと考えていた時期があった。

 50 歳にもなると、心筋梗塞などで亡くなる同級生も出てくる。これまで生きてきた時間よりも、残っている時間のほうがはるかに短いんだと思うと、ちょっとあせりのようなものも感じる。10 歳のころに抱いてた死に対するぼんやりとした不安とは少し異なる不安のようなものを感じるようになった今日この頃である。

 動物の中で、自分がいずれ死ぬことを知っているのは人間だけである。「この世を去ったら極楽浄土に生まれ変わる」と考え、この世に生きていたときのことを「生前」と呼ぶようになったことは至極当然なことだ。でも極楽浄土ってどんなところなんだろう。文字どおり楽の極みだとしたら、そんなところに住んでいる人たちは堕落しているに違いない、などと要らぬ心配をしてみたくなる。

 冒頭の質問に対する答は、死に対する自分の考え方を表しているそうである。私の答えは、「どこかに切れ目がないか、壁に沿って歩いてみる」だった。こういうのを往生際が悪いというんだろうな。しかし、「余命○○日です」という死の宣告を受けて、「ああそうですか」と平然と受け入れるなんてことは、いくつになってもできそうにない。

しんむつ会

 派遣社員として働く妻は、派遣先の会社の「しんむつ会」なるものに定期的に出席している。どういう活動を行っているのかはよくわからないが、社内の数人のメンバーで作った、ちょっとしたお遊びのような会なんだろう。そう思っていた。

「明日また『しんむつ会』あるから、帰り遅くなる」と妻が言う。
「おお、わかった。何か適当に食べとく」と答えた私は、以前から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「ところで、『しんむつ会』って何?どんな字書くの」
「『親』しいっていう字に陸みたい字の『むつ』っていう字あるやん。それ」
「ひょっとして、これか」
紙に「親睦会」と書いて、妻に見せた。
「うん。それそれ」
「これなあ、『しんぼく会』って読むんやで」

 睦月(むつき = 陰暦正月)や「睦まじい」など、睦という字は確かに「むつ」と読む。だから、「しんむつ会」と読みたくなる気持ちはわからないでもない。いつも「親睦会のお知らせ」が回覧されるが、その読み方が話題になったことはないという。「しんむつ会」の正体が親睦会だったとは・・・。

 これまでに、「えっ、そんな読み方するか」と思った中で、いちばんおもしろかったのが、とある友人が言った「むらさこい」だ。何のことかと思ったら、居酒屋の「村さ来」(むらさき)のことだった。でも、「村さ来い」っていう店名はそれほど悪くないと思う。田舎っぽい料理で素朴なスタッフがおもてなしをする店というイメージを与える。いっそのこと、「村さ来い」に改名したらどうだろう。

 かくいう私も人のことを笑えない。「迎春」という字を30 代半ばまでずっと「ぎょうしゅん」と読んでいた。間違いを指摘されて恥ずかしい思いをしたことがある。迎という字は「げい」と読み、「ぎょう」とは読まないことは十分に認識してたのだが・・・。日常的に使わないようなことばは、勘違いにずっと気づかないまま年を取るってことは誰にでもある。他人の恥ずかしい勘違いは笑えるけど、自分が恥ずかしい思いをするのはやっぱり嫌なんだなあ。 

食べるラー油作りを候文にて

 中世から近代の日本では、候文という文語文体が盛んに使われていた。現在ではまったく使われることがない文体だが、何とも言えない趣があってよい。一度候文で記事を書いてみたいと思い、書き方を調べてみたのだが、候文の正しい書き方を解説したサイトはなかなかない。唯一発見したのが「候文について」というページである。このサイトに記載されている「候」の基本的な使い方と活用に従って、文末に「候」を付加しただけの付け焼刃的な候文を書いてみた。

食べるラー油を作り仕り候

 昨年あれほど流行った食べるラー油がスーパーから完全に姿を消し候。普段小生が買い物に行く西友でもまったく見かけることこれなく候。桃屋のものも、SB 食品のものもこれなく候。そんなおり、普段行かないスーパーに行き候はば、自分で食べるラー油を作れるキットを発見し候。値段も 190 円なにがしと安く(1 の位の正確な数字は記憶に御座なく候)、迷わず購入致し候。キットの内容は、フライドガーリック、ラー油、コチジャン、保存用の瓶で御座候。

手作り食べるラー油キットスーパーで見つけた食べるラー油の手作りキットで御座候

 早速食べるラー油作りに取りかかり候。まずは、瓶にフライドガーリックを入れ仕り候。次に、ラー油を瓶に注ぎ込み、コチジャンを入れてよく混ぜ候はば、食べる MY ラー油の完成に御座候。難しい点はまったくこれなく候。

手作り食べるラー油キット

 説明書によれば、1 ~ 2 日寝かせ候はばいっそうおいしくなる候よし、冷蔵庫で保存して熟成するのを待つことに致し候。果たして、おいしい食べるラー油ができる候や。まことに美味なれば、再度購入致したく存じ候。

 同じように食べるラー油を求めている方がこれあり候はば、是非ともご購入成し下さるべく候。

 候文の最大の特徴は、時制がないことである。過去形と現在形の区別がない。したがって、「ありました」と「あります」のどちらも、「これあり候」となる。このことが理解できていないと、「あれ、過去形はどうやって表現するんだ」と頭をひねることになる。現在形か過去形かは、文脈で判断するしかない。またいつか、もうちょっと勉強して、風情のある候文を書き仕りたく存じ候。

ありがとうの反対語

 私は普段ラジオを聴きながら仕事をしている。以前は BGM 代わりに FM ラジオをつけていたのだが、最近はもっぱら AM 放送を聴いている。誰ともしゃべることなくずっと PC に向かっていると、音楽よりも人の話し声を聞いていたくなる。

 先日 MBS ラジオを聴いていると、いつもの番組にあるゲストが来て、こんな問いかけをした。
「ありがとうの反対語ってなんだと思いますか」
私も一緒になって考えてみた。ありがとうの反対語って何だろう。番組のパーソナリティも誰一人として正解がわからない。しばらくして、質問の答えが発表された。
「ありがとうの反対語は、当たり前です」

 なるほど。「ありがとう」は「有り難い」っていう意味だから、その反対は「当たり前」か。言語学的にもそのとおりだ。

 言語学的な観点からだけでなく、「有り難い」と「当たり前」について少し考えてみた。私たちは今の自分の生活をついつい当たり前だと考えてしまう。目が見えて当たり前。耳が聞こえて当たり前。仕事があって当たり前。言論の自由があって当たり前。毎日にご飯が食べられて当たり前。生きていて当たり前。日々数々の当たり前に囲まれて生活していると思っている。

 しかし、地球上には、食べるものがなくて餓死している人々がいる。言論の自由が保障されていない国もある。戦争の恐怖におびえながら暮らしている人たちもいる。子どもたちがまともに学校に行けない国もある。日本が今のような国になったのも、歴史的に見ればつい最近のことである。今なら簡単に治る病気で簡単に死んでいった人たちがいた。職業を自由に選べない時代もあった。若者が神風特攻隊として命を国に捧げることを強要された時代もあった。

 こういうことを冷静に考えてみると、今の時代にこの日本という国に生まれ、生きていることは、とっても「有り難い」ことなのである。

 昨日、いつものようにラジオを聴いていたら、懐かしい曲が流れた。1979 年にヒットした、ばんばひろふみの『SACHIKO』という曲だ。

幸せを数えたら片手にさえ余る
不幸せ数えたら両手でも足りない
(中略)
SACHIKO 思い通りに
SACHIKO 生きてごらん
(後略)

SACHIKO ばんばひろふみ 歌詞情報 - goo 音楽より

 気が付いたら、サビの「SACHIKO 思い通りに SACHIKO 生きてごらん」の部分を一緒になって歌っていた。SACHIKO には、いったいどんな辛いことがあったんでしょう。

 今日もラジオをつけて仕事を開始。ABC ラジオでは、さっきからチョコレートの効用について説明している。そうか、今日はバレンタインデーか。チョコレートはもらえなくても、毎日仕事があって「ありがたや」。そして、毎日楽しいおしゃべりを聞かせてくれるラジオの人たちも「ありがたや」。

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