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どうでもいいようなことをつぶやいています


死んでから何年生きられるか

 一昨日、仕事関連の勉強会から帰ると友人から FB 経由でメッセージが届いていた。同級生の訃報を知らせるメッセージだった。詳しいことはわからないが、突然の事故などではなく病死だったようだ。長い間地元から離れて暮らしているので、日常的な付き合いがあったわけではないが、子どものころ教室で机を並べて勉強した同級生が亡くなったと思うと、やっぱり寂しい気持ちになる。ご冥福をお祈りします。

 中村勘三郎さんや小沢昭一さんなど、このところ著名人の訃報が続いている。80 歳以上の人が亡くなってもそれほど驚きはしないが、中村勘三郎さん、太平シローさん、金子哲雄さん、桑名正博さんなど、50 代以下の人の訃報を耳にするとショックを感じてしまう(今年亡くなった人のリストについては、「【訃報】2012年 逝ってしまった人たち【合掌】」を参照)。我が身にそのようなことが起こっても、何ら不思議ではない年になったということだ。

 先日ある人がおもしろいことを言っていた。人間は二度死ぬという言うのだ。1 回目の死は肉体的な死である。そして、人々の記憶や心からその人が完全に消え去った時が2 回目の死だそうだ。私のような一般人は、私のことを直接知っている人がこの世から全員いなくなれば、当然だれの心にも残っていないわけだから、その時が 2 回目の死ということになる。

 それに対して、ミュージシャンや俳優などは、音源や映像として記録に残り、人の記憶や心から簡単に消え去ることはない。音源や映像が残っていなくても、先日富嶽三十六景を見に行った葛飾北斎などは、作品という形でいまだに生きているのかも知れない。芸術家はそういう生きた証を残すことができる。

 もっとすごいのは歴史上の人物だ。坂本龍馬はいまだに熱狂的なファンがいる。そいう人達の間では龍馬はまだ死んでいないし、100 年後もやっぱり語り継がれているだろう。もっと古い時代だと、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国武将もいまだに、ドラマ化されたりしているので、このような人たちもまだ死んでいないのかもしれない。

 そう考えると、日本でいちばん長生きしているのは平清盛なのかもしれない。ちょうど今大河ドラマで主演を演じているし、平家物語というノンフィクションの物語の主人公でもある。平清盛以前にも記録として残っている人物は多数いるが、それはひとりの人間として人の心に残っているとは言いがたい気がする。平清盛は1118 年生まれなので御年 894 歳。果たして私は何歳まで生きられるだろうか。

歯医者までもがハロウィーン

 100 円ショップがハロウィーングッズであふれかえっているのを見て、ハロウィーングッズってそんなに需要があるものなんだろうかと疑問に思ったのは 1 カ月半ほど前。それからしばらくして、町のあちこちでハロウィーンのかぼちゃを見かけるようになった。花屋、ケーキ屋、飲食店などの飾り付けがすっかりハロウィーン仕様になっている。そうか、あの大量のハロウィーングッズは、こういう店を対象としたものだったか。それなら、大量のハロウィーングッズが売られている理由がわからないでもない。

 しかし、日本でハロウィーンというものが知られるようになったからといって、それはあくまでもケーキ屋や飲食店でのビジネス利用であって、クリスマスみたいに一般家庭で何かをするなんてことにはまだなっていない。ついこの間までそう思っていた。ところが、先日普通の家の庭でハロウィーンの衣装を着た子どもたちを見かけてびっくり。SNS でも、ハロウィーンの衣装を着た大人や子どもたちの写真がちょくちょくアップされている。今日は、ハロウィーン仕様にしている歯医者を発見して「う~ん」と唸ってしまった。歯医者までもがハロウィーン?

ハロウィーン仕様の歯医者

 いつからこんなことになったんだ。私がハロウィーンというものの存在を知ったのは中学生のときだ。NHK のラジオ英会話でハロウィーンのことが取り上げられていて、「へえ~。欧米ではそういう習慣があるのか」と思ったことを覚えている。その時は、まさか日本にハロウィーンが定着する日(?)が来るとは思わなかった。

 ハロウィーンの決まり文句と言えば Trick or treat。日本語に訳すと「お菓子をくれないといたずらするぞ」。日本人がいくら欧米の習慣を表面的に真似るのが好きでも、まさか子どもたちが 「Trick or treat」と言いながら、近所の家を回る日が来るとは思えない。だいたい、日本の子どもに「お菓子をくれないといたずらするぞ」などという恐喝みたいな台詞は似合わない。「お手伝いするからお菓子をちょうだい」くらいがかわいくていい。

 日本人はどんなことでも日本流にアレンジするのが得意だから、今後ハロウィーンは子どもたちに地域社会の活動の手伝いをさせる日にしたらどうだろう。掃除でも何でもいい。子どもたちに何かをさせて、褒美にお菓子をあげればいい。「お手伝いするからお菓子をちょうだい」と言いながら子どもたちが集まってくる。お菓子業界も潤うし、地域社会の活性化につながるかもしれない。そんなことをぼんやり考えてみたハロウィーンの日でした。

今日から秋と言われても

 今日は立秋。よく「暦の上では秋」などと言う。今日からは暦の上では秋であり、実際に立秋以降の暑さは残暑と呼ばれる。しかし、気温を基準に考えると 1 年でいちばん暑い月は 8 月であり、これまで 8 月が秋だなどと思ったことはない。「今日から秋と言われても」という感じである。

 ところが、俳句をやるようになってからは、暦上の季節をはっきりと意識するようになった。俳句の世界では、今日以降は明確に秋なのである。もう夏の句は詠めない。しかし、暦(俳句)の季節と現実的な季節感との間にはなぜ 1 カ月もずれがあるのだろうか。このことをずっと不思議に思っていたのだが、最近自分なりの答えが出たので、そのことについて書いてみたい。

 たぶん『失楽園』だったと思うが、たしか「夏が終わって秋が来るのではなく、夏のうちから秋の準備は始まっている」みたいな台詞があった。つまり、立春、立夏、立秋、立冬といいった暦上の季節の変わり目は、それぞれ前の季節がピークに達する日なのではないだろうか。たとえば、立秋は夏がピークに達する日。夏がピークに達し、今日を堺に夏は徐々に衰えていく。『失楽園』風に言うなら、秋の準備が始まる日だと捉えてもよい。今日から約 90 日をかけて秋がピークに達していく。つまり、1 日に 1.1% ずつ秋が進行していくことになる。

 立秋の今日は秋の要素 1.1% と夏の要素 98.9% で構成されている。これで、秋の気配を感じろと言っても無理な話である。これが 47 日後の秋分になると、秋の要素が 51.7%、夏の要素が 48.3% という比率になる。「暑さ寒さも彼岸まで」というが、確かに秋の要素と夏の要素の比率が逆転している。本格的に秋の気配が感じられるようになるのがこのころである。

 気温を基準に区分したものが現実的な季節であるとすれば、それぞれの季節の準備が始まってから完了するまでの期間を基準に区分したものが暦の季節なのかもしれない。そして、ほとんど夏の要素で占められた 8 月の日々の中に、1 日 1.1% ずつ増えていく秋の要素を発見し、感じ、観察していくことができれば、とても楽しいことのような気がする。残暑厳しい 8 月に、これからいくつの「小さい秋」を見つけられるか、楽しみである。

 くにしろの拙句は「ハイ!句にしろ!」で公開しています。よろしければ、覗いてみてくださいまし。

金環食フィーバー

 6 時 15 分起床。早起きの目的はもちろん金環日食。寝室の窓から外を見ると青空が広がっている。やった。思わずガッツポーズ。天気予報では今朝の天気はくもりとのことだったので、この辺りではたぶん見られないだろうと半分以上あきらめていた。しかし、雲はやや多いものの晴れ間が広がる空を見て、興奮度合いが高まる。

 6 時半ごろ日食が始まる。ゴールデンウィークに 100 均で買った日食グラスで太陽を見る。右上がわずかに欠けているのがはっきりわかる。じっと観察していると月と太陽の距離感が感じられ、立体的に見えてくるから不思議だ。写真を撮ろうとしたがなかなかうまく撮れない。日食グラスをしたまま、カメラを見ても暗くて何も見えない。仕方がないので、レンズをグラスで覆って撮ってみた。

「えらい熱心やなあ」
いつもどおり朝ごはんを食べながら、昨晩録画した番組を見ている妻。
「世紀の天体ショーなんやから見なあかんやろ。生きてる間に金環食が見られる機会はたぶんこれが最後やで」
と興奮状態の私。
「金環になったら、ちらっと見るだけでええ」
つまらんやつやなあ。こんなすごいものがただで見られるのに。

 7 時 28 分ごろ金環状態に入る。しかし、いよいよという時に太陽は厚い雲に隠され、はっきりと見えなくなる。私が住む川西は金環食が見られる北限らしく、完全にきれいなリングにはならないと思われる。それでも瞬間的にはリング状態になるはずなので、雲の合間から顔を見せろと念じていた。願いが通じたのか、雲の合間から金環状態の太陽が現れる。リング状になった太陽がはっきり見えた(残念ながら、金環状態の太陽を写真に収めることはできなかった)。

金環直後の太陽

 金環状態になったときは、空がやや宇宙色になったような気がする。ツイッターでは、きれいなリング状になったとか、あまりよく見えないとか、いろんな実況が届く。みんなで一緒に日食観測をしているようで楽しい。こんなきれいな金環食を撮影して見せてくれた人もいた。適度な雲がかかっていると、かえって肉眼できれいに見えるみたいだ。2 分ほどで金環状態が終わり、太陽がまた満ち始める。

 生まれて初めての金環食をきれいに見ることができて感動した(金環食に限らず、自分はこれまでに日食を生で見たことがあるのかどうか定かではない)。もちろん、写真やビデオで金環日食を見たことはあるが、実際に自分の目でリアルタイムに見ると感激する。世紀の天文ショーに大いに興じたか風薫る 5 月の早朝の出来事でした。

世の中は怖いものだらけ

「ちょっとしみるかもしれませんよ」と歯医者が言う。
私は「はい」と答えながら、心の中で「それなら麻酔してくださいよ。麻酔」とつぶやく。歯の治療の中でいちばん嫌なのが麻酔なしで歯を削られる治療だ。麻酔をかけて行う治療なら絶対に痛くないので安心していられる。しかし、麻酔なしで治療する場合は、ひょっとしたら激痛が走るかもしれないと思うと、怖くて怖くて仕方がない。心臓が激しく鼓動し、体全体に力が入る。

 世の中には怖いものがいろいろあるが、私の中で歯医者はその最右翼である。4 月の初めから歯医者に通っているのだが、明日は歯医者だと思うと前の晩から憂鬱になる。毎週こんな思いをするのなら、全身麻酔をしてもらって、意識がない間に一気に治してもらえたらどんなにいいだろうかと思う。それなら 1 日くらい入院してもかまわない。

 歯医者以外にも怖いものはある。高いところもその 1 つだ。私は極端な高所恐怖症で、脚立に登るのさえ怖い。自由の女神の王冠の所まで階段で登った時には、怖くて直立できずにほとんど四つんばい状態だった。もちろんジェットコースターも大嫌いだ。USJ のバック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライドでは、実際には空中を飛んでいるわけでもないのに、気絶しそうになった。高いところから飛び降りたりするアトラクションなんてもってのほかだ。たとえ、バンジージャンプやスカイダイビングをやったら 10 億円もやると言われても、絶対にやらない。

 怖いもの御三家の最後はカミソリや刃物。ただし、現実世界の刃物やカミソリではなく、テレビドラマや映画に登場する刃物やカミソリに限定される。手首にカミソリを当てるシーンや、誰かが顔に刃物を突きつけられているシーンや、出術シーンなどは怖くて見ていられない。正確に言うと、人の皮膚から流れ出る血を見るのが怖いのかもしれない。そういうシーンになると目を手で覆い、「終わったら言うて」と妻に頼む。最近は、メスで切った皮膚から血が流れ出る手術シーンも珍しくないので、手術シーンは要注意だ。最近ドラマを観ていて怖いなと思ったのが、床屋でひげをそっているシーン。手が滑って顔が切れるんじゃないだろうかと思うとどきどきする。

 怖いもの番外編はホラー映画。洋画のホラーは平気なのだが、『貞子』とか『リング』といった、日本のホラーは怖い。飲み屋で他人が話していた霊の話を聞いただけで、うなされて夜中に悲鳴をあげてしまったくらいだから、『貞子』や『リング』などを観たら、その夜は夢でショック死をしてしまうかもしれない。日本のホラーは絶対に観ないことにしている。

 高いところや血は、まったく怖くないという人もいる。しかし、歯医者だけは程度の差こそあれ、誰にとっても怖いものだと思っていた。以前、そういう前提である女性と話していたら、「歯医者は全然嫌いじゃない。むしろ好きなくらい」と言われて驚いたことがある。「歯医者が嫌いだとか怖いとか言う人の気持ちがわからない」と書いているブログ記事を読んだこともあるが、それもやっぱり女性だった。ジェットコースターや高いところが好きなのも圧倒的に女性のほうが多い。男は血を見ると卒倒するけど、普段血を見慣れている女性は血なんか全然怖くないという話も聞いたことがある。

 生命力(寿命)にしても、痛みに対する強さにしても、精神力にしても、男は女に太刀打ちできない。「男は度胸」ということばがあるが、それは嘘だ。いざというときに本当に腹が座っているのは、絶対に男よりも女だと思う。「母は強し」とは言うが「父は強し」とはあまり言わないしね。本当の強さという意味で女よりも格段に劣る男が身に付けるべきものは愛嬌である。声を大にして言いたい。これからの時代は「男は愛嬌、女は度胸」だ。

源氏まつりはいとをかし

 私が住む兵庫県川西市では、毎年 4 月の第 2 日曜日に「源氏まつり」と呼ばれるイベントが行なれる。なんでも、ここ川西は源氏および武士団の発祥の地なのだそうだ(詳しい説明は、こちらを参照)。川西市に住み始めて 20 年近くになるというのに、こんな由緒正しい祭りを私は 1 回も観たことがない。

 今日は朝から快晴で、寒くもなく暑くもないすばらしい天気。仕事もちょうど途切れて、この週末は完全に自由な状態だ。これだけの条件が揃ったのは、源氏まつりを観に行きなさいということに違いない。源氏まつりのメインイベントは、源氏の武者や姫などに扮した人たちが街中を歩く懐古行列と呼ばれる行列で、午後 1 時 30 分に始まる。川西市の源氏まつりの広報ページによると、朝の 10 時から、市の中心部の商業施設で、源氏の姫役、武者役などに扮して行列に参加する人たちの紹介と、同じく行列に参加する早稲田摂陵高等学校ウィンドバンドの演奏が行なわれるとのこと。せっかくだからこれも見に行くことにした。

 源満仲公、源頼光、八幡太郎義家、巴御前、常盤御前、静御前、美女丸、幸寿丸の役を演じる人たちが武者や姫になりきって口上を述べるという演出だった。巴御前に「懐古行列を観に来てたもれ」と頼まれたら、やっぱり行くしかないなと思う。源氏一族の口上が終わると、テレビなどに多数出演している早稲田摂陵高校ウィンドバンドの演奏が始まった。2 曲ほど聴いて、昼ごはんを食べるために一旦家に帰る。

源氏に扮した人たちの口上口上を述べる、源満仲公に扮した大塩川西市長

 懐古行列が行なわれる多田神社は、わが家の最寄り駅から電車で 10 分ほどである。能勢電鉄の多田駅から多田神社までは徒歩 20 分くらいかかるらしいので、余裕を見て 12 時過ぎに家を出る。多田駅に着くと、おそらく懐古行列を見物しに行くのであろう人たちでけっこう賑わっていた。

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手塚治虫記念館に行ってきました

 今日は朝から雲ひとつない快晴。ぽかぽか陽気のこんな日は、どこかに出かけたくなる。今週は思った以上に仕事がはかどり、スケジュールに若干の余裕ができたので、午後はどこかに出かけることにした。行きたいところはいろいろあるのだが、前から行きたいと思っていた手塚治虫記念館に行くことにした。手塚治虫記念館は川西の隣の宝塚市にある。電車に 10 分も乗ればいけるのだが、近いところにあるといつでも行けると思ってなかなか行かないものだ。だから、行きたいと思ったときに行っておくに限る。

 阪急宝塚駅を降りると、あちこちに手塚治虫記念館の案内標識がある。標識に従って、花のみちを歩く。花のみちのことは、名前は聞いたことはあったのが、実際に歩くのはこれが初めてだ。宝塚大劇場に行ってきたと思われる人たちで賑わっていた。5 分ほど歩くと右手に宝塚大劇場が出現。宝塚大劇場を生で見るのは初めてだ。割とこじんまりした建物だった。

花の道の開花直前の桜

 大劇場を過ぎてさらに花のみちを歩くと、ベルサイユのバラなど、宝塚にちなんだ銅像がいくつも並んでいる。花のみちの桜は開花直前。思わずスキップしたくなる。さらに歩くと、火の鳥が見えてきたので、それが手塚治虫記念館であることは直ぐに分かった。

 手塚治虫記念館の入場料は 700 円。手塚治虫関連の資料や原画が多数展示されている。こういうところには珍しく、写真撮影 OK とのことだったので、館内の写真を多数撮ってきた(宝塚花のみちや手塚治虫記念館の写真は宝塚・手塚治虫写真記念館@Photo Gallery 9246 を参照)。手塚作品と言えば、私にとってはやっぱり『火の鳥』だ。子どものころ夢中になって読んだ。生まれて初めて大スクリーンで観た映画は確か『リボンの騎士』だったと思う。

 桜の季節もすぐそこだ。宝塚への往復 2 時間の小旅行を楽しんだうららかな春の 1 日でした。

足湯でぽっかぽか

 私は比較的寒さに強く、どちらかというと冬は好きな季節である。暖房も弱めで平気なのだが、今年の冬は、自分の身体にこれまでにない変化を感じている。加齢のせいなのか、それとも特別に寒いせいなのかはわからないが、足がやけに冷たく感じる。

 仕事中もずっと足が冷たいので、電気ストーブに足の裏を向けて暖めているのだが、さすがにずっとその体勢を続けることはできない。それで、足湯をすることを思いついたのだが、家にあるバケツでは片足すら入りきらなかった。この間から、外出するたびにスーパーやホームセンターなどで足湯用のバケツを探しているのだが、どこも扱っていない。

 楽天でチェックしたら、1,000 円以下でいくらでも足湯用のバケツがある。しかし、こういった安い商品をネットで買うと送料がかかるのがバカらしい。700 ~ 800 円の商品に 500 円の送料を払うのは何とももったいない。念のため、アマゾンでもチェックしてみたところ、送料無料の足湯用バケツ
を発見。思わずポチってしまった。

 昨日の午後に注文した足湯バケツが今日の昼にはもう届いた。アマゾンは、このような価格の製品を送料無料で販売して、ちゃんと利益は出ているんだろうか。このシステムで成立しているということは、よほど原価が安いんだろう。以前、アマゾンは高いというイメージを持っていたが、最近ではアマゾンがいちばん安いことも珍しくない。本や CD に限らず、どんなものでも一度アマゾンで価格をチェックしてみると、思いがけず安く購入できることもある。

 閑話休題。届いた足湯用バケツにさっそく湯を入れて、足を入れてみた。足だけ風呂に入っているような心地よい温かさが気持ちいい。足がぽっかぽかで幸せ気分を味わえる。バケツの底には、足の裏を刺激する突起や土踏まず用のふくらみまで付いている。この冬は、この足湯で何とか乗り切れそうだ。足が冷たくて困っている方、安くて気持ちいい足湯おすすめですよ!

足湯

足湯でぽっかぽか

安いやつほどよく育つ

 つくづく私には園芸の才能がないと思う。昨年 10 月 22 日のエントリー「土が乾いたら」に書いたときには青々としていたシモツケ草が、写真のように見るも無残な姿になってしまった。水やりには十分気を付けていたつもりなのだが、こんな風になってしまったらもう生き返ることはないだろう。

枯れてしまったシモツケ草

無残な姿になってしまったシモツケ草

 ある程度の年月、枯れずに育っているのは、新花月錦とサボテンと名前を知らない変な多肉植物である。ワイヤープランツも枯れかけたのだが、急いで水をやったらどうにか息を吹き返したようである。新花月錦は、2008 年 3 月 27 日のエントリー「何に似ているのかと思ったら・・・」で書いているので、もう 3 年も生きていることになる。左から 2 番目のは、昨年 100 円ショップで買った名前を知らない多肉植物である。もう 1 つ元気なのは、これも 100 円ショップで買ったミニサボテン。

新花月錦とサボテンとワイヤープランツ

左から順に、新花月錦、名前を知らない変な多肉植物、サボテン、ワイヤープランツ

 よく見てみると、元気なのは安いやつばかりだ。手間がかかるちょっと高級なやつは私の手には負えないのか。もう少し暖かくなったら、多肉植物ではないちょっと高いやつを買って、無事越年させてみたい。何がいいだろうか。今ちょっと目を付けているのはプミラ。

 それにしても、左から 2 番目の名前を知らない多肉植物は気持ちが悪い。最初は鉢にぴったりと収まるほどの大きさだったのに、見る見る大きくなって妖怪みたいになってきた。夜中、人間が見ていないときににょろにょろと動いているような気がしてならない。こいつの名前を知っている方がいたら、教えてください。

名前を知らない多肉植物

にょろにょろ妖怪植物(仮称)

待ち焦がれる

 小学校の同窓会は大盛り上がりというほどではなかったが、それなりに楽しいひと時だった。今回初参加の人もいて、数十年ぶりの懐かしい再会もあった。同窓会は、いつも出席するのがおっくうになるが、結局は出席してよかったといつも思う。

 私たちの小学校の同窓会は 5 年に一度のはずだったのだが、どういう手違いからか、今回の同窓会は前回の開催から 4 年しか経っていないことが判明した。このまま、4 年に 1 回開催していけば、ちょうど還暦イヤーにも開催することになるので、引き続き 4 年毎、つまりオリンピックイヤーに同窓会をやっていこうということに決まった。

 次の次の回には、自分たちはもう還暦になるのか。ひょえ~。恐ろしや恐ろしや。年を取るごとに年々時間が経つのが速くなるので、8 年なんてあっという間に過ぎるに違いない。

 年を取ると時間が過ぎるのが速く感じるのは、だんだん新しい経験が少なくなるからだという人がいる。確かにそのとおりだと思う。子どものころは、すべてが初めての体験なので、時間が長く感じるんだろう。しかし、年々時間が速く経つと感じるようになるのには、もう 1 つ理由があることを最近発見した。それは、おとなになると、待ち焦がれることが少なくなるからである。

 運動会、遠足、クリスマス、紅白歌合戦、お正月など、子どものころは待ち焦がれれていることがいっぱいあった。特に正月などは、『お正月』の歌詞のとおり、あといくつ寝るとお正月になるのか指折り数えて待ったものだ。

 大人になった今でも、先のことを楽しみにして、待ち遠しいと思うことはある。しかし、子どものときのように、まだかまだかと何かを待ち焦がれることはなくなった。指折り数えて何かを待っているときは時間が経つのが遅く感じる。速く時間が経ってほしいという気持ちが強いからだ。

 ということは、今でも常に何かを待ち焦がれていれば、きっと時間がゆっくり過ぎるはずだ。待ち焦がれる気持ちはそんなには長続きしないので、あまり長期的なものではなく、数週間から数カ月単位で、常に何かを待ち焦がれるようにすれいい。そうすれば、子どものころにように、長くて濃い時間を過ごすことができる。

 この待ち焦がれるの法則はなかなかの発見だったと思うのだが、問題はそこまで待ち焦がれることができる対象が、現在の自分にはないということである。こういうことは無理やり作ることではない。結局は、日々何かに懸命に取り組み、その結果が待ち遠しくなるような生活をしないといけないということか。

 正月モードも今日で終わり。明日からまた日常が始まる。「待ち焦がれることを 1 つでも多く作る」をテーマに、今年も 1 年がんばるぞと思った 1 月 3 日の夜でした。

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