落語を通して見る江戸時代の生活と世相
私の親の世代は、年齢の話になると必ず「数えでいくつ、満でいくつ」と、2 種類の年齢を言っていた(今でも言っているのかどうかはよくわからないが)。先日もテレビで 96 歳のおじいちゃんが年齢を聞かれて、「数えで~」と言っていた。戦前の人にとっては、年齢のデフォルトは今でも数え年なのかもしれない。日本で満年齢が正式に使われるようになったのは、昭和 25 年から(「年齢のとなえ方に関する法律」の制定による)とのことだから、歴史的な観点から言えば満年齢という概念が定着したのはつい最近のことだ。
『落語の国からのぞいてみれば 』(講談社現代新書、堀井健一郎著)は、落語を通して江戸時代の生活やものの考え方や習慣などをわかりやすく説明している本。数え年という概念やその根底にある社会通念をわかりやすく解説した「数え年のほうがわかりやすい」など、興味深い内容が満載の本で、楽しく読める一冊だった。私が特におもしろいと感じたのは、「みんな走るように歩いている」と「三十日には月は出ない」と「昼と夜では時間がちがう」の章。
「みんな走るように歩いている」は江戸時代の交通事情についてのお話。江戸時代の人は江戸から京都まで歩いていたと聞くと、当時の人は大変だったんだなと思ってしまう。しかし、こういう発想自体がもう現代人の発想なのだという。歩く以外に手段がなかった当時の人にとって、それは大変なことでも不便なことでもなかった。現在では、新幹線を利用すると東京・京都間を2 時間ほどで移動できる。このことが普通のことだと思っている現代人の前に 35 世紀の未来からやってきた未来人が現れて、「ソンドブを使えば 45 分で移動できるのに、なぜソンドブを使わないんですか?ソンドブがないなんてずいぶん大変ですね」と言われているようなものらしい。確かに、「ソンドブがないから大変だ」とか言われても、そんなものが現実としてないんだから、わたしたちは別に不便だとも大変だとも感じない。うまいたとえ話だと思う。江戸時代の人にとって、歩くというのはそういう感覚らしい。
「三十日に月は出ない」は、当時の明かりとしての月のお話。月(month)が月(moon)の満ち欠けを基盤としたものであることはもちろん知識としては知っている。今日は 15 日だから満月だとか、30 日だから月が出ないだとか、月の満ち欠けを意識しながら生活している現代人はほとんどいないと思う。しかし、日が沈んだあとは、暗闇の世界に支配されていた当時の人からすれば、闇夜を照らす存在としての月は、現代人が想像する以上に生活に密着した存在であり、人々は常に生活の中で月を意識していたとのこと。言われてみれば、なるほどと思うことだが、夜でも昼と変わらない明るさが簡単に得られる現代人からしてみれば、まったく価値観が異なる世界といっても大げさではないような気がする。
先週の『龍馬伝』を見ていてずいぶん違和感を覚えたが、この本に記載された江戸時代の恋愛事情からすると、龍馬と加尾の恋のエピソードはかなり現代風なアレンジが加えられたものであったことが想像される。200 年前の世界にタイムスリップしたような感覚で楽しく読めるこの本、落語好きの人にも歴史(時代劇)好きの人にもおすすめしたい一冊である。
落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書) 講談社 2008-06-17 by G-Tools |
『落語の国からのぞいてみれば 』のくにしろの評価:
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