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本に関する雑談


おとなの塗り絵

 紀伊国屋書店の塗り絵コーナーには、多くの塗り絵本が並んでいた。題材も、花、田園風景、仏画、フランスの風景、民芸品、野菜、京都など、多種多様なものがそろっている。中身をじっくり吟味した結果、「日本の旅先の風景」をテーマにした塗り絵本を買うことにした。

 私には絵心というものがまったくない。普通、絵心がない人は絵を描きたいと思わないのだろうが、私の困ったところは、絵心がないくせに絵を描きたがることである。2 年ほど前に、水彩画に挑戦してみたのだが、完成したものはとても絵と呼べるような代物ではなかった。

 それでも絵を描いてみたいという気持ちがなくならない私が思い付いたのが塗り絵である。下絵があり、完成見本があるので、絵心がない私でもなんとかそれらしいものが描けるだろうと考えたからだ。

「やさしい大人の塗り絵 日本の旅先の風景編」には、11 枚の塗り絵が収められていた。夕食後さっそくやってみた。選んだ風景は倉敷。見本を見ながら、12 色の色鉛筆で一心不乱に色を塗る。夢中になってしまった。2 時間後に完成したのがこちら。


大人の塗り絵(倉敷)。クリックで拡大完成した大人の塗り絵(倉敷)。拡大画像はこちら

 上手いとは言えないかもしれないが、自分が描いた(?)とは思えないものができあがって大満足である。塗り絵遊びがいっぺんでに気に入ってしまった。わずか 950 円で、11 枚の塗り絵が楽しめる。1 枚あたり 86 円だ。しかも、2 時間も楽しめる。なんとコストパフォーマンスに優れた遊びなんだろう。

 いつの日か「なかなか味があるねえ」と言ってもらえるようなオリジナルの水彩画を描けるようになることを夢見て、この塗り絵遊びでしばらく自分の絵心を鍛えてみることにする。


やさしい大人の塗り絵 日本の旅先の風景編やさしい大人の塗り絵 日本の旅先の風景編
門馬 朝久

大人の塗り絵 日本の祭り編 やさしい大人の塗り絵 庭に咲く花編 やさしい大人の塗り絵 やすらぎの風景編 やさしい大人の塗り絵 春に咲く花編 大人の塗り絵 東京の風景編

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せいてせかん

 震災後、仕事が大幅に減るのではないかと心配していたのだが、今のところ震災前と変わらないペースで仕事が来ている。むしろ、急ぎで難しい仕事が多くなり、ここ 1 カ月ほど、ずっと「急かされてる」感があった。昨日、急ぎの案件を納品して、ちょっと一息ついたところである。仕事がなくなったり激減したりして、大変な思いをしている人がいることを考えたら、とてもありがたいことである。この先どうなるのか少し不安ではあるが。

 最近のマイブームは寝る前の読書。もっぱら田辺聖子さんのエッセイ集を読んでいる。その日の眠さの度合いに応じて、2 編から 5 編くらい、10 分から 30 分くらい読書を楽しんでいる。おせいさんのエッセイの特徴は、ところどころに関西弁や大阪弁の解説が盛り込まれていることだ。田辺さんの大阪弁講座はわかりやすくて、ためになる。

 今読んでいるのは『楽老抄 IV そのときはそのとき』。この本で紹介されていた大阪弁で、ふむふむと思ったのが「せいてせかん」ということば。聞いたことはあるが使ったことはない。大阪(関西)弁とはいっても、若い人が使うことばではない。使っても違和感がないのは、60 歳から 70 歳以上の生粋の関西人だろうか。

 「せいてせかんのやけど」とか「せいてせかん話やけど」などと言われたら、「急く」のか「急かない」のか、どっちだと思うかもしれないが、超要約してしまうと「急く」ということになるらしい。しかし、このことばの意味を正確に表そうとすると、恐ろしく説明的になるようである。

 これとよく似たことは翻訳でも経験する。1 つの英単語を正確に日本語に訳そうとすると、数行に渡る説明が必要になることがある。あまり説明的な訳文にすることもできないので、まだ日本語として定着していないカタカナ語を使ったり、意味がある程度近い日本語に置き換えたりしている。

 閑話休題。「せいてせかん」は「願わくは」という願望と相手への心くばりを込めたことばらしい。あえて標準語にするなら、「せいているようで、せいてはおりませんが、相なるべくは、せいて下さると、誠にありがたいのですが」になるとのこと。つまり、本音は「急いているのだけど、それをはっきり言ってしまうと身もふたもないので、ちょっと遠慮気味に言っているが、そこらあたりを察して、なるべく急いでくださいよ」だ。何と奥が深い言い回しだ。

 私はこの「せいてせかんのやけど」というフレーズを使ってみたくてうずうずしているのだが、たかだか関西在住 25 年の 50 歳の「若造」が使うには、ちょっと敷居が高い言い回しである。10 年後、いや 20 年後にはこのフレーズを違和感なく言える老人になりたい。しかし、そのころにはこのことばの真意を理解してくれる人がいくなっているかもしれない。いと悲し。

 この週末の予定は小さ目の仕事が 1 つ入っているだけである。願わくは、週末は少しゆっくり過ごし、また週明けから大き目の仕事に取り組みたい。もちろん「せいてせかん案件」も大歓迎だ。

 福島原発の問題は、相変わらず先が見えない。まさか事故発生時に管総理が「せいてせかんのやけど」という前置きを付けて指示を出したことが、問題が大きくなった原因じゃないでしょうね。

4087712958楽老抄(4)そのときはそのとき
田辺聖子
集英社 2009-06-05

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1,000 円からお預かりします

 スーパーなどのレジで、「1,000 円からお預かりします」と言われると、イラッとして、「1,000 円から預かるんじゃなくて、1,000 円預かるんだろ」と心の中でつぶやいてしまう。「1,000 円ちょうどからお預かりします。レシートのお返しになります」などと、わけのわからないことを言う人もいる。「1,000 円から買い物の代金を差し引くと、レシートになるのか」と突っ込みたくなる。もちろん、いやなオヤジだと思われたくないので、何も言わないが。

 もう 30 年近くも前のことになるが、学生のときに地元のジャスコでアルバイトをしていたことがある。時々レジを担当することもあったが、当時は「1,000 円から預かる」のような妙な言い回しをする人はいなかったと思う。接客用語として特に教えられたわけではなかったが、社員やパートのおばさんたちの言い方を倣って次のように言っていた。

おつりが必要なとき: 1,000 円お預かりします。○○ 円のお返しです。
おつりが不要なとき: 1,000 円ちょうど頂戴します。

 たとえば、買い物の代金が 780 円で、お客様が 1,000 円を出したときには、1,000 円から買い物代金 780 円を頂戴することになるので、いったん 1,000 円を預かることになる。しかし、買い物代金が 1,000 円で、お客様が 1,000 円を出した場合は、1,000 円を預かるわけではない。この場合は、1,000 円をそのまま全額頂戴することになるので「1,000 円ちょうど頂戴します(いただきます)」と言うのが正しい。

 どうして、「~から預かる」という妙な言い回しが生まれ、それが幅を利かせるようになったんだろうか。昨日、偶然『愉快な日本語講座』という本を読んでいたら、この言い回しに関する記述があり、その疑問が解けた。この本の著者、添田 健治朗教授によると、これは混交によって生じた現象だとのこと。以下は、同書からの引用。

 混交とは、似たような場面において、似たような形の表現が複数聞かれるような場合に、そのそれぞれの語の要素の前半部と後半部とが、発話の流れに沿って混ざり合っていく現象で、話し手の心理が働いて生み出された言語変化の一つなのである。

的を射た x 当を得た = 的を得た
汚名返上 x 名誉挽回 = 汚名挽回
喧々囂々(けんけんごうごう) x 侃々諤々(かんかんがくがく) = 喧々諤々(けんけんがくがく)
(後略)

「1,000 円からお預かりします」は、次のような混交によって発生したのではないかとのとこ。

1,000 円から頂戴します x 1,000 円お預かりします = 1,000 円からお預かりします。

 なるほどねえ。これは説得力がある説明だ。納得。しかし、このような妙な言い回しが発生した理由がわかることと、それを使ってもいいか否かは別問題である。汚名挽回や喧々諤々が間違いであるのと同様、「1,000 円からお預かりします」も間違った日本語である。こんな言い方は許してはならない。世の中から、「~ から預かる」が撲滅されることを切に願う。

4093875804愉快な日本語講座
添田 建治郎
小学館 2005-06

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おらは死んじまっただァ

 予定していたよりも仕事が早く終ったため、先日図書館で借りてきた『昭和レトロ語辞典』を手に取り、興味のある項目を読んでみる。タイトルは辞典となっているが、昭和 30 年から 42 年の間に流行したことばとその背景について解説した読み物である。

4062138131昭和レトロ語辞典
清野 恵美子
講談社 2007-02-07

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 私が生まれた年は昭和 35 年である。昭和 30 ~ 38 年ごろまでの事象は、知識としては知ってはいるが、リアルタイムで体験したわけでない。かろうじて、何となく覚えているかなというのが昭和 38 年ごろからである。『昭和レトロ語辞典』に紹介されている流行語の中で、実体験として強烈に印象に残っているものが 2 つあった。

 まずは昭和 38 年に流行したという「シェー」。これは赤塚不二夫の代表作『おそ松くん』から生まれた流行語。漫画の登場人物のひとりであるイヤミは、おフランス帰りを鼻にかけたいやみなやつで、びっくりすると独特のポーズで「シェー」という奇声を発する。当時の子どもたちは、皆イヤミのポーズを真似て、「シェー」とやったものである。子どものときに撮った写真に、「シェー」のポーズをして写っているものがあるくらいだから相当流行したんだろう。

 もう 1 つの印象に残っている流行語は「おらは死んじまっただァ」。これは、昭和 42 年に大ヒットしたフォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』の歌い出しの部分である。当時 280 万枚売れたらしく、強烈に記憶に残っている。テープの早回しといい、ふざけた歌詞といい、奇想天外な曲だった。当時、だれもが「おらは死んじまっただァ」と口ずさんでいた。

 当時はまったく知らなかったのだが、『帰ってきたヨッパライ』は歌詞の内容以外にも、遊び心がいっぱい詰まった曲だったようである。たとえば、「天国よいとこ一度はおいで」という部分は、「草津良いとこ一度はおいで」をもじった歌詞だったらしい。また、最後の僧侶の読経部分には、「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (A Hard Day's Night)」の歌詞が盛り込まれていたり(お経風に「It's been a hard day's night」と言っている)、曲の締めくくりは、「エリーゼのために」のフェードアウトになっていたりする。フォーク・クルセダーズの偉大さを再認識した 1 日だった。

『もしドラ』は忘れたころにやってくる

「予約されている本が入っています」
図書館で本を借りようとしたら、カウンターでこんなことを言われた。いったい何のことだろう。状況がよくわからないまま待っていると、図書館の係員は、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を私に示した。そうだ。思い出した。確か去年の秋ごろに予約した本だ。そのときは、待ち人数が数百人だった(具体的な数を聞いたと思うが忘れた)。自分に順番が回ってくるのずっと先のことだと思っていたので、意外と早く順番が回ってきたことに驚いた。

 私はここ数カ月、常に図書館で本を借りている状態が続いている。貸し出し期間の 2 週間で読めるかどうかは別にして、おもしろそうだと思う本を片っ端から借りている。期限が来たら返却し、また別の本を借りてくる。それを繰り返していいる。読む時間がなかったら読まずに返して、また後日借りればよい。読み始めておもしろくないと思えば、途中で読むのをやめればよい。このような形で利用できる市立図書館はとても有益である。市民の税金で運営されているんだから、逆に利用しないと損だ。

 通常なら借りてきたからと言って、必ずしも読まなければならないという考えはないのだが、この本に限っては、読まずに返してしまったら今度いつ自分に回ってくるかわからない。そういうわけで、通称『もしドラ』を最優先で読み始めた。

 少女マンガのような表紙とは裏腹に、内容は結構高度である。主人公の川島みなみは、とある都立高校の野球部の女子マネージャー。野球部を強くしたいと考えてドラッカーの『マネジメント』を購入する。これは、起業家や経営者のために書かれた経営に関する専門的な本だったのだが、野球部のマネージャーの心得についた書かかれた本だと勘違いしたのだ。しかし、みなみはせっかく買った本だからといって、ドラッカーのマネジメントに基づいて野球部の改革に着手し甲子園出場を目指す。

 経営やマネジメントに関する専門的な情報と高校野球を題材とした青春小説をミックスしたような内容で、とても興味深く楽しく読めた。『もしドラ』を通じて、経営というものの本質も垣間見ることができた。また今度、本家の『マネジメント』も読んでみたいと思わせる内容だった。満足度は 85%。

4478012032もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
岩崎 夏海
ダイヤモンド社 2009-12-04

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4478410232マネジメント - 基本と原則 [エッセンシャル版]
P・F. ドラッカー 上田 惇生
ダイヤモンド社 2001-12-14

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断捨離と赤福

 なかなか物を捨てられない私が、次から次へと物をごみ袋にぶち込んでいった。今日は午前中に仕事が終わったので、最近話題の「断捨離」を実行していたのだ。

 「断捨離」とは、不要なものとの関係を断ち、捨て、それらから離れることらしい。最近『断捨離』が注目を集めていることは知っていた。本屋でちらっと立ち読みした程度なので、奥深いところまで理解しているわけではないが、とにかくやってみた。

 部屋を整理していたら次から次へといろんな物が出てくる出てくる。以前の私なら「これはいつか使うときがあるかもしれない」とか「これは思い出の品だからなあ」などと言って、迷ったら残していた。

 しかし、こういう考え方をしていたら、物は増え続ける一方だ。本当に必要な物なら部屋の片隅に何年も埋もれていたりしない。1 年以上使わなかった物は必要ないものだ。そう言い聞かせて、迷ったらとにかく捨てることにした。瞬く間にごみ袋が 4 つも満杯になった。

 断捨離作業も快調に進み、ちょっと疲れてひと休みしていたときに妻からメール。

残業してたから遅くなったけどこれから帰る。
赤福は買った。

 昨日、ラジオで伊勢神宮の話題が取り上げられ、パーソナリティが赤福のことを話していた。それを聴いて無性に赤福が食べたくなったことを妻に話したところ、「私も食べたいから、仕事の帰りに買えたら買ってくる」とのことだった。

 夕食後のデザートに、8 個入りの赤福をふたりで全部たいらげた。久しぶりの赤福。うまかった。三重出身者として、伊勢名物の赤福は断捨離するわけにはいかない。


赤福 8 個入り伊勢名物の赤福(8 個入り)


4838720521新・片づけ術「断捨離」
やました ひでこ
マガジンハウス 2009-12-17

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本末転倒

最近妻は、たらみのゼロカロリーゼリーとかいうものを好んで食べているようである。お腹がすいたときに何か食べたいけど、カロリーの高いものは避けたいからという理由で食べているのだという。

たらみのゼロカロリーゼリーたらみのゼロカロリーゼリー

しかし、よく考えてみるととってもおかしな話である。人間は、いやすべての動物はずっと飢えと戦ったきたわけであり、いかに食料を確保するか、いかにカロリーの高い食品を効率よく摂取するかが最大の課題だったはずである。ご飯をたらふく食べたあとでも、甘いものなら食べられられる「別腹」という現象は、飢餓に備えて高カロリーのものはできるだけ摂取しておこうという人間(動物)のハイカロリー指向を象徴している機能である。

だから、ゼロカロリーのものをわざわざお金を出して買って食べるというのは本末転倒な行為である。なるべく安くてカロリーの高いものを求めるのが本来の姿である。巷には、低カロリー、カロリーオフ、ゼロカロリーを謳った商品があふれかえっている。どれもこれも本末転倒な商品だ。

そう言えば、昔これとよく似た話があったなあと思って考えていたら、筒井康隆の『にぎやかな未来』という本に、本末転倒を題材にしたショートショートが収録されていたことを思い出した。

常にレコードをかけていないと罰せられるという変な法律ができている、未来の様子を描いた話だったと思う。町には CM の音楽が騒々しく流れ、レコードには広告が挿入されるようになっていて、私たちは常に CM を無理り聴かされている状況になっていた。そんな世の中でいちばん高価なレコードは、何も音が入っていない無音のレコードだった。たしか、こんな感じの話だった。

未来の話なのに、CD じゃなくてレコードっていうところが玉に瑕ではあるが、まあそれは仕方ないか。


心地よい痛み

痛みというものは、その種類や程度を問わず嫌なものである。

唯一例外があるとしたらそれは筋肉痛。病気じゃないことがわかっているという心理的な要因もあるのかもしれないが、筋肉痛は嫌いじゃない。むしろ心地よい痛みだと言ってもいい。私は最近この心地よい痛みを楽しんでいる。妻が買ってきた 『読む筋トレ 』(扶桑社新書) という本を読んだことをきっかけに筋トレを始めたからだ。

3 年間続けていたジム通いを中止して 1 年。夏はあまりにも暑かったのでウォーキングもなかなかできなかった。加齢に伴って、ぽっこりお腹は悪化する一方。何とかしないとやばいと思い始めていたところだった。

この本は、これまでのダイエットや減量の概念や常識を覆す内容で、トレーニングの手法よりもメンタルな部分に焦点を当てている。筋トレの重要性は前からわかっていたが、メンタルな部分を変えないと長続きしないことや、長時間の有酸素運動に励むよりも、短時間の筋トレのほうが効果が高いことがよくわかった。筋トレに費やす時間は 1 日わずか 5 分。

「がんばって 1 年後には板チョコのような腹にし、ここで写真を公開してやるぞ」とゆるく心に誓ったのであるが、果たしていつまで続くのやら、若干の不安もあったりする。

今まで、何をやっても長続きしなかった方や効果がなかった方にぜひお勧めの一冊です。私のように目から鱗が落ちるかも。

読む筋トレ (扶桑社新書)
読む筋トレ (扶桑社新書)森 俊憲

扶桑社 2010-06-01
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「よろしかったでしょうか」は消えつつある?

ファミレスやコンビニで使われる変な日本語(敬語)として、「よろしかったでしょうか」「~ほうが ~ になります」「○○ 円からお預かりします」などが問題視されるようになってずいぶんになる。

私も、ファミレスやコンビニで使われるこのような変なマニュアル敬語が嫌いで、「~ してよろしかったでしょうか」という言い方に気持ち悪さを感じていた。なぜ、このフレーズが気持ち悪いのかはよくわからなかったのだが、『そんな言い方ないだろう』(新潮新書、梶原しげる著)を読んで、ようやくその理由がわかった。この本では、「よろしいでしょうか」と「よろしかったでしょうか」の違いについて、次のように説明してる。

「よろしいでしょうか」という問いかけには、客に判断を求める謙虚さが残っています。「よろしかったでしょうか」ではすでに判断は店側が済ませてあり、客にその承認を求めるだけという傲慢さが感じられます。

なるほど、そのとおりだ。たとえば、ファストフード店でよく聞くフレーズに、「ご一緒にポテトはよろしかったでしょうか」がある。この言い方には、「普通のお客様はハンバーガーと一緒にポテトも召し上がります。お客様はハンバーガーだけのご注文ですが、本当にポテトは注文しなくていいんですよね」というニュアンスが感じられる。ひょっとすると、このように言われた客がついつい注文してしまうことを狙って、わざとこういう言い回しを考え出したのかもしれないと思ったりもするが。

ただ、同書によると、最近はこのようなマニュアル敬語に変化が見られるとのこと。ファミリーレストランのロイヤルホストでは、「こちらのほうがメニューになります」を「どうぞメニューでございます」、「1,000 円からお預かりします」を「1,000 円お預かりします」に、「チキンカレーでよろしかったでしょうか」を「チキンカレーでよろしゅうございますか」に改めさせているとのことだ。とってもいいことだと思う。

最近ロイヤルホストに行ったことがないので、自分の耳で確かめてはいないが、ロイヤルホストのこのような取り組みによって、ほぼ定着しかけていたファミレス、コンビニ、ファストフード店の変なマニュアル敬語が駆逐されることを願う。

4106101165そんな言い方ないだろう (新潮新書)
新潮社 2005-04-15

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落語を通して見る江戸時代の生活と世相

私の親の世代は、年齢の話になると必ず「数えでいくつ、満でいくつ」と、2 種類の年齢を言っていた(今でも言っているのかどうかはよくわからないが)。先日もテレビで 96 歳のおじいちゃんが年齢を聞かれて、「数えで~」と言っていた。戦前の人にとっては、年齢のデフォルトは今でも数え年なのかもしれない。日本で満年齢が正式に使われるようになったのは、昭和 25 年から(「年齢のとなえ方に関する法律」の制定による)とのことだから、歴史的な観点から言えば満年齢という概念が定着したのはつい最近のことだ。

『落語の国からのぞいてみれば 』(講談社現代新書、堀井健一郎著)は、落語を通して江戸時代の生活やものの考え方や習慣などをわかりやすく説明している本。数え年という概念やその根底にある社会通念をわかりやすく解説した「数え年のほうがわかりやすい」など、興味深い内容が満載の本で、楽しく読める一冊だった。私が特におもしろいと感じたのは、「みんな走るように歩いている」と「三十日には月は出ない」と「昼と夜では時間がちがう」の章。

「みんな走るように歩いている」は江戸時代の交通事情についてのお話。江戸時代の人は江戸から京都まで歩いていたと聞くと、当時の人は大変だったんだなと思ってしまう。しかし、こういう発想自体がもう現代人の発想なのだという。歩く以外に手段がなかった当時の人にとって、それは大変なことでも不便なことでもなかった。現在では、新幹線を利用すると東京・京都間を2 時間ほどで移動できる。このことが普通のことだと思っている現代人の前に 35 世紀の未来からやってきた未来人が現れて、「ソンドブを使えば 45 分で移動できるのに、なぜソンドブを使わないんですか?ソンドブがないなんてずいぶん大変ですね」と言われているようなものらしい。確かに、「ソンドブがないから大変だ」とか言われても、そんなものが現実としてないんだから、わたしたちは別に不便だとも大変だとも感じない。うまいたとえ話だと思う。江戸時代の人にとって、歩くというのはそういう感覚らしい。

「三十日に月は出ない」は、当時の明かりとしての月のお話。月(month)が月(moon)の満ち欠けを基盤としたものであることはもちろん知識としては知っている。今日は 15 日だから満月だとか、30 日だから月が出ないだとか、月の満ち欠けを意識しながら生活している現代人はほとんどいないと思う。しかし、日が沈んだあとは、暗闇の世界に支配されていた当時の人からすれば、闇夜を照らす存在としての月は、現代人が想像する以上に生活に密着した存在であり、人々は常に生活の中で月を意識していたとのこと。言われてみれば、なるほどと思うことだが、夜でも昼と変わらない明るさが簡単に得られる現代人からしてみれば、まったく価値観が異なる世界といっても大げさではないような気がする。

先週の『龍馬伝』を見ていてずいぶん違和感を覚えたが、この本に記載された江戸時代の恋愛事情からすると、龍馬と加尾の恋のエピソードはかなり現代風なアレンジが加えられたものであったことが想像される。200 年前の世界にタイムスリップしたような感覚で楽しく読めるこの本、落語好きの人にも歴史(時代劇)好きの人にもおすすめしたい一冊である。

4062879476落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)
講談社 2008-06-17

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『落語の国からのぞいてみれば 』のくにしろの評価: 星 4.5 個

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