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大相撲の八百長問題について考える

 大相撲の八百長問題がまた世間を騒がせている。大相撲の八百長問題が発生すると、マスコミや相撲協会はいつも「八百長が本当に行われていたかどうか」を論点にする。しかし、これを論点にすること自体が間違っているのではないかと私は思う。

 問題にすべきポイントは、「八百長が本当に行われていたかどうか」ではなく、「大相撲における八百長の是非」ではないだろうか。私は過去に相撲を熱心に観戦していた時期があったが、千秋楽で 7 勝 7 敗の力士がたいてい勝つことはもちろん気づいていた。『ヤバい経済学』でも、7 勝 7 敗で千秋楽を迎えた力士の勝率が正常値よりも格段に高くなるというデータが示されている。これを八百長と呼ぶべきかどうかは別にして、あらかじめ勝敗が決まっている取り組みがあることは明白だ。

 日本相撲協会は、「八百長は過去にはなかった」だとか「八百長と無気力相撲は違う」など、意味不明な主張をするのではなく、「大相撲における八百長の是非」について、自らの考えと今後の態度をはっきりさせるべきだ。

「相撲で八百長が行われているのはみんな知ってるでしょ。でも、それは暗黙の了解ということで、騒ぎ立てないでくださいよ」。これが、相撲協会の本音なのではないかと私は推測する。そうであれば、八百長が明白になったこの状況において、相撲協会の取るべき方針は以下の 2 つのいずれかしかないと思う。

  1. これまで八百長は暗黙の了解で行われてきた。しかし、今後は純粋なスポーツとして八百長を一切禁止し、きびしく取り締まる。そして、八百長が行われないような制度を確立するなどして、抜本的な変革を行う。
  2. これまで八百長は暗黙の了解で行われてきた。しかし、大相撲は純粋なスポーツというよりも神事的な要素、興業的な要素が強いイベントである。「あらかじめ勝敗が決まっている取り組み」は今後も暗黙の了解として認める。そういったことも含めた新しい形態の大相撲を確立する。

 私の個人的な見解では、(2) のほうがよいと思う。日本国内各地で神事として「奉納相撲」が行われてきた経緯などを考えると、相撲を純粋なスポーツと捉えるのは難しいと思う。興行的要素 6 割、神事的要素 1 割、スポーツ的要素 3 割くらいの特殊なイベントと捉えるのが自然な姿だろう。

 大相撲が純粋なスポーツではないとすれば、「八百長」という表現は不適切になる。プロレスをだれも八百長だと騒ぎ立てないのと同様、相撲に八百長という概念はなくなる。相撲が神事であることを鑑み、神様の意思によって行われた取り組みというニュアンスを込めて、いっそのこと「お告げ相撲」とでも呼んだらどうだろう。あらかじめ勝敗が決まっていた取り組みを行った力士などは、「あれはお告げ相撲でした」と公然と言えるようにすればよい。

 真剣勝負とお告げ相撲が入り混じった新しい大相撲は、それなりにおもしろいかもしれない。少なくとも、私は「八百長は過去に一切なかった」などと言っている現在の大相撲よりも、格段に興味を持てる。






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