幸田來未の発言が大きな問題になっている。「35歳を回るとお母さんの羊水が腐ってくる」といった趣旨の発言に対して、抗議のメールが届いたり、ネットで批判が起きたりし、大きな問題になっているわけだが、私個人としては、そこまで非難する必要があることだろうかと思う。
YouTubeで公開されている実際の放送内容を聞いてみたが、幸田來未にまったく悪意はないようだし、単に「子どもを若いうちに産むことを推奨する」発言だと思う。実際に35歳を超えても羊水が腐ることはないらしいので、単なる知識不足な発言ということで片付けていいのではないか。
もちろん、悪意がなければ何を言ってもいいということではない。この発言で不愉快な思いをした人がいることも事実かもしれない。当然、このような発言に抗議する人の意見は尊重しなければならない。しかし、私は「抗議しない人の意見」というものについても考える必要があると思う。
たとえば、ある発言に対して100件の抗議があったとする。放送局はこれを深刻に受け止め、謝罪したりするわけだが、抗議しない(しなかった人)の意見というものがまったく無視されているような気がする。つまり、抗議した 100 人を遥かに上回る人が、「別に問題発言ではない」と考えているかもしれないということである。
私がもし幸田來未の番組を生で聞いていたとしたら、別に問題発言だとは思わないだろう。しかし、だからといって、「今日の幸田來未の羊水発言にはまったく問題がないと思う」といった意見を放送局にメールしたり、電話したりはしない。この種の問題が発生すると、いつも「抗議しない人の意見」がないがしろにされているような気がして残念である。
実際に、私はサラリーマン時代に「抗議しない人の意見が無視された」事例を経験している。
当時私が働いていた会社で、営業社員が使用しているある書類の書式についての意見を求める文書が回覧されたことがあった。社員の A さんから、「書式のある部分を変えてほしい」という意見が寄せられたらしい。担当者の総務部長は「A さんの意見を反映して書式を変更した」と言った。
ところが、ほかの大多数の社員は、当該箇所は変更しないほうがいいという意見を持っていたようで、結局は元に戻すことになった。もし私がそのような変更要求があることを知っていたなら、変更が行なわれる前に「今のままがいい」という意見を述べていたと思う。
この総務部長は、「なるべくみんなの意見を採り入れて、よりよいものに」という考えだったそうだ。しかし、ひとりから意見が出た場合は、ほかの人がどう考えているのかを確認しないとみんなの意見を採り入れたことにはならない。
何も言わないということは、何も意見がないということではない。