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それって本当に流行語?

 今年も恒例の流行語大賞が発表された。見事大賞に輝いたのは「なでしこジャパン」とのこと。ほかに候補に挙がったことばは、「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「絆」「こだまでしょうか」「どじょう内閣」「ラブ注入」「スマホ」「どや顔」などらしい。

 以前から思っていたことなのだが、果たしてこういうことばは本当に流行語と呼べるんだろうか。流行語と聞いて私が思い浮かべるのは、「がちょ~ん」「お呼びでない」「ちょっとだけよ」「おしゃまんべ」「当たり前田のクラッカー」「どろんする」「シェー」といったことばだ。残念ながら、古いものしか思いつかなかったが、多くの国民に長期に渡って浸透し、何かにつけて使われていたことばである。

 それに対して、「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「どじょう内閣」「スマホ」などは、今年話題になったり注目を集めたりした事象であり、何かのおりにそれを口にするといった類のものではない。そういう意味で言うと、今年の候補の中で「流行語」と呼んでも差支えがなさそうなものは「ラブ注入」しかないような気がする。「ラブ注入」が、老若男女を問わず、どの世代にも広く浸透したかどうかは別として。

 多様化がますます進む現代社会では、昔のように世代に関係なく誰もが知っているような流行語というのものはもう生まれないのかもしれない。最近では、世代を超えてだれもが歌えるようなヒット曲がほとんど生まれなくなったのと似ている。裏返して言えば、昔は娯楽の選択肢が少なかったため、みんなが同じものを見て同じように興じていたということである。楽しみや娯楽が多様化し、各人がそれぞれの楽しみを持てる今の時代と、どちらのほうがいいのかはよくわからないが。

 今年最も印象に残った出来事や事象という意味では、「なでしこジャパン」が大賞を受賞したのは妥当だと思う。このあとの年末の恒例行事といえば今年の漢字。今年はどんな漢字が選ばれるんだろうか。今年も残りわずか。終りよければすべてよしにしたいものである。

ワイン通ではないけれど

 昨夜テレビ東京で放送された『カンブリア宮殿』はとても興味深い内容だった。取り上げていたのは、カーブドッチという新潟のワイナリー。経営方針がきわめてユニークである。カーブドッチでは、ワインを流通にのせて東京で売るといったことはしない。東京で売るのではなく、欲しかったら新潟に来てもらうのだそうだ。敷地内には、ワインを楽しむためのレストランやイングリッシュガーデン、さらにはホテルまで併設している。

 敷地内は、観光バスや団体客はお断り。レストランは子どもの立ち入り禁止といった具合に、「お客様は神様です」的な経営はやっていない。それでも、カーブドッチのワインを求めて年間 30 万人が訪れるのだそうだ。客にこれだけの「すべし」や「すべからず」を要求し、それでも繁盛しているということはよほど品質がよいのだろう。私は決してワイン通ではないし、ワインのことに詳しくもない。実際に飲んでみても良し悪しなんてわからないと思うが、それでもカーブドッチのワインを飲んでみたくなった。

 もう 1 つのユニークなポイントが資金の集め方である。カーブドッチには、Vino Club というブドウの苗木のオーナー制度がある。1 口 1 万円でブドウの苗木のオーナーになると、10年間毎年ワインが 1 本ずつプレゼントしてもらえるらしい。苗木のオーナーという形で出資できて、10 年間ワインを楽しめるなんて、夢があって楽しい。

 カーブドッチの落社長は、新潟のこの地域を東洋のナパにするのだそうだ。ナパとは、米カリフォルニア州のワイナリーが密集する地域とのこと。その計画の実現に多少でも協力できたらと思い、私も Vino Club に入って苗木のオーナーになることにした。どんなワインが届くのか、今から楽しみだ。

ひとり焼肉、ひとりカラオケ、ひとり鍋、ひとり酒

 ひとり焼肉専門店「ひとり」に続いて、ひとりカラオケ専門店「ワンカラ」が明日 11 月 25 日にオープンするらしい(「ひとりカラオケ専門店「ワンカラ」体験してみた!」を参照)。焼肉にしてもカラオケにしても、こういう店が成立するということは、それだけ需要があるということなんだろう。「FNN ニュース: 1人カラオケの専門店」によると、一人しゃぶしゃぶの専門店もあるという。

 こういう「おひとり様市場」が拡大しているのは、人との関わりを避けて、いろんなことをひとりで楽しみたいという人が増えているからなのか、それとも本当は大勢で行きたいけど、なかなか一緒に行く人が見つからないからなんだろうか。もちろん、そういうところにひとりで行くのが楽しい人は、それを楽しめばいいと思うが、私個人としては焼肉も鍋もカラオケもひとりで行きたいとは思わない。特にカラオケについては、大勢で行くこともあまり好きではないため、ひとりでなんて考えられない。

 人とつるんだり他人に付和雷同したりせずに、いろんなことをひとりでやろうとする「ひとりで」精神は大切だと思うが、こういう「ひとりで」は寂しくてよろしくない。

 ひとりで行っても寂しくないのは映画と飲み屋である。映画はむしろひとりのほうがいいとも言える。それと、カウンターがある居酒屋やバーなどにひとりで行くのもけっこう好きだ。友人と、ああだこうだとしゃべりながら飲むのも楽しいが、知らない店にふらりと入って、店の人としゃべったり、何回か通っているうちに常連さんと顔見知りになったりするのもなかなか楽しいものである。

 ここ数年は、健康上の理由と経済的な理由から、ひとり飲みを控えていたのだが、最近どうしても行ってみたい店ができた。カウンターが中心の関東煮の店だ。関東煮は「かんとだき」と読む。おでんのことである(厳密に言うと、おでんと関東煮は別のものらしいが)。近いうちに行ってみることにする。

 「おひとり様市場」の拡大に伴い、今後はどんなひとり専門店が登場するんだろうか。自分にぴったりのひとり専門的が登場したら行ってみたいけど、個室でひとりでひっそりと飲む「ひとり居酒屋」だけはごめんだ。

パソコン要らないやつ

 やるべきことを次から次へとこなしているのに、私の「やること」リストはいつまでたってもきれいにならない。厳密に言うと、「やること」リストの項目は、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」に分かれる。「やりたいこと」は放っておいてもやるので、リストにいつまでも残るのは、当然「やらなければならないこと」ばかりになる。

 早いもので、今年もあとわずかであわただしい年末がやってくる。この時期の「やること」リストの項目で、最もやっかいなものが年賀状書き。以前は、私の年末の「やること」リストにも「年賀状」の文字がいつまでも残っていたのだが、数年前に年賀状を書くのをやめることに決めてからは、その重圧から完全に開放された。一度書くのをやめてしまうと、再びあの重圧を味わうのはもうゴメンだと思う。「今年は久しぶりに会いたいですね」みたいな白々しいコメントを書くのが嫌になったことも年賀状を書くのをやめた理由の 1 つである。

 「『新年おめでとう』はNG? 震災で年賀状に異変‎(日本経済新聞)」によると、東日本大震災の影響を受けて、「おめでとう」や「謹賀新年」といった文言を使っていいものかと悩む人が増えているという。しかし、「おめでとう」や「謹賀新年」は決まり文句みたいなものなんだし、そこまで気にする必要があるんだろうか。被災していない人に出すのであれば、別に問題はないと思う。今回の震災で被災した知り合いに出すのであれば、同じデザインのものに、ねぎらいのことばを書き加えればいいのではないだろうか。

 年賀状といえば、最近気になるのが EPSON の Colorio Me の CM 。この CM で黒木メイサさんは、「これお土産。パソコン要らないやつで~す」と言っている。私は最初、「パソコン要らないやつ」は「要らなくなったパソコン」という意味だと思っていた。要らなくなったパソコンを娘が母親に持ってきたんだと思っていたのだが、「パソコンを必要としないプリンター」という意味であることが判明。「パソコン要らないやつ」は「不要なパソコン」と「パソコンを必要としないやつ(プリンター)」の 2 とおりに解釈できる。もちろん、目くじらを立てるほどのことではないのだが、こういう些細なことが気になる。きっと職業病だ。

 Colorio を使うと、印刷業者に頼んだようなきれいな年賀状ができあがるようである。年賀状を出さない私にそんなことを言う資格はないのかもしれないが、そこまできれいなものができるのであれば手作りする必要があるんだろうか。プリントごっこのような、手作り感が漂うものであればある程度意味があると思うのだが。



小唄にまつわるエトセトラ

 以前のエントリー「細胞に浸み込んでいる歌」で、私の細胞には『琵琶湖就航の歌』が浸み込んでいると書いたが、私の細胞のもっと奥深くには、別の歌が浸み込んでいるかもしれないと思い始めた。おりに触れ、その歌を口ずさんでいることに気付いたのだ。

 私の口をついて出るのはある歌の一節。「恋にもいろいろありまして、ヒゴイにマゴイは池の鯉」と「好きで好きで大好きで、死ぬ程好きなお方でも」という一節である。前者は『まつの木小唄』、後者は『お座敷小唄』だ。何となく切なくてきゅんとしてしまう歌詞が、若いころから何となく好きだった。

 小唄と名が付くものは、『まつの木小唄』と『お座敷小唄』以外では、『ラバウル小唄』と『軍隊小唄』が思い浮かぶ。ほかにどんなものがあるのか、YouTube で検索してみたら『海軍小唄』という小唄を発見。再生してみると、「汽車の窓から手を握り、送ってくれた人よりも」という歌詞が流れる。どこかで聴いたことがある歌詞とメロディだと思ったら、ドリフターズの『ドリフのズンドコ節』だ。もちろん、『海軍小唄』のほうが元歌である。

 そもそも、小唄とは何なのか。気になったので調べてみると、新明解辞典では「端唄((ハウタ))の一種。短い歌詞を三味線の伴奏で歌うもの」となっている。端唄とは何だ。同辞典によると、「技巧の少ない自由な形式の短い俗謡。多く三味線に合わせて歌う」歌らしい。よくわからないので、コトバンクで調べてみると、以下のように定義されていた。

明治末期から昭和にかけて、主にレコードで用いられた流行歌謡の分類。俗曲・小唄2・民謡などの調べを持つもののほか、新作も多く、内容は多様。(小唄@コトバンク

 わかるような、わからないような説明であるが、要するに昔の流行歌ということか。

 『お座敷小唄』の歌詞について、長い間ずっと疑問に思っていることがある。以下の歌詞についてである。

富士の高嶺に 降る雪も
京都先斗町に 降る雪も
雪に変わりは ないじゃなし
とけて流れりゃ 皆同じ
お座敷小唄 松尾和子&和田弘とマヒナスターズ 歌詞情報 - goo 音楽

 疑問に思うのは、「雪に変わりは ないじゃなし」という部分。「とけて流れりゃ皆同じ」と続いているのだから、「どこに降る雪であろうと、雪に変わりはない」という意味である。それならば、「雪に変わりがあるじゃなし」となるべきだと思うのだが。「変わりはないじゃなし」だと、「変わりがないことはない」、つまり「富士山に降る雪と、京都先斗町に降る雪は、同じ雪ではない」という意味になってしまう。話しことばで、「変わりがないんじゃない?」と語尾を上げれば、「変わりはない」という意味であるが、「ないじゃなし」はそのようには解釈できない。どうもすっきりしない。




参考・参照サイト

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