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私の B 級グルメ

昨日の我が家の夕食は、B 級グルメの祭典 B-1 グランプリでナンバーワンに輝いた横手やきそばだった。たまたま生協で売っていたらしい。もちもちした麺とさっぱりしたソースがおいしかった。きっと、ご当地の専門店で食べたら何倍もうまいんだろうと思う。

横手やきそば

テレビで B 級グルメの特集をしていると、私は食い入るように見てしまう。B 級グルメにはさまざまな定義があるようだが、一般的には「贅沢でなく、安価で日常的に食される庶民的な飲食物」とされている。この定義からすると、最近の私にとっての B 級グルメのナンバーワンは「ちくわの磯辺揚げ」ということになる。「日常的に食される飲食物」という B 級グルメの条件も、私に限って言えば、ちゃんとクリアしている。

私が、ちくわの磯辺揚げを比較的「日常的に食せる」ようになったのは、「こんなものばかり食べていたら・・・」で取り上げた川西みなみ食堂(毎度おおきに食堂)のおかげである。この食堂にちょこちょこ行くのには、ウォーキングを兼ねて行くのにちょうどよい距離だという理由と、自分で好きなおかずを好きなだけ選べるシステムなので、低カロリー定食を自分で作れるという理由もあるが、最大の理由はやっぱりちくわの磯辺揚げだ。

毎度おおきに食堂のちくわの磯辺揚げ

ちくわの磯辺揚げとの出会いは小学生のときの給食。鯨肉や揚げパンと並んで好きな給食のメニューだった。毎度おおきに食堂のちくわの磯辺揚げは、1 皿 3 本入りで 105 円。本当なら 2 皿くらい食べたいところだが、かっこ悪いので 1 皿でぐっと我慢している。手軽にレトロな懐かしの味を食べさせてくれる毎度おおきに食堂に感謝多謝。

桃ラー好きは桃ラーラー?

少し前から「桃ラー」が全国的に流行している。昨晩も「となりのマエストロ」という番組で、ご飯に合う人気急上昇の食材として紹介されていた。これで品切れにますます拍車がかかり、入手困難になるのではないかと少し心配。

「桃ラー」とは、フライドガーリックとフライドオニオンを加えた具入りラー油のことであり、正式名称は「桃屋の辛そうで辛くない少し辛いラー油」である。私の場合、MBS ラジオ「ノムラでノムラだ ♪ex トラ」で、野村啓司氏が大絶賛していたので、購入してみたことが桃ラーラーになったきっかけだ(桃ラー好きの人を桃ラーラーと呼ぶかどうかは定かではない)。

商品のラベルに記載されたおすすめの食材は、焼き餃子、水餃子、ラーメン、白いごはん、冷奴、納豆、冷たいうどん、サラダ、炒飯、パスタ、ポテト料理など。ご飯やポテトサラダなどにトッピングして食べるのもおいしいが、ラーメンや雑炊などの汁物との相性もいい。それほど多くの食べ方を試したわけではないが、私がいちばん気に入っているのが、サッポロ一番 塩らーめんとの組み合わせだ。桃ラーを加えるだけでも十分にうまくなるのだが、さらに魔法の調味料「味覇(ウェイパー)」を少々加えてみたところ、最強のインスタントラーメンが完成してしまった。

サッポロ一番 塩らーめん + 桃ラー + 味覇

結論: サッポロ一番 塩らーめん + 桃ラー + 味覇 = 最強のインスタントラーメン
(注意: 味覚は個人によって異なります。この組み合わせが万人にとって美味であることを保証するものではありません)



桃屋の辛そうで辛くない少し辛いラー油


「よろしかったでしょうか」は消えつつある?

ファミレスやコンビニで使われる変な日本語(敬語)として、「よろしかったでしょうか」「~ほうが ~ になります」「○○ 円からお預かりします」などが問題視されるようになってずいぶんになる。

私も、ファミレスやコンビニで使われるこのような変なマニュアル敬語が嫌いで、「~ してよろしかったでしょうか」という言い方に気持ち悪さを感じていた。なぜ、このフレーズが気持ち悪いのかはよくわからなかったのだが、『そんな言い方ないだろう』(新潮新書、梶原しげる著)を読んで、ようやくその理由がわかった。この本では、「よろしいでしょうか」と「よろしかったでしょうか」の違いについて、次のように説明してる。

「よろしいでしょうか」という問いかけには、客に判断を求める謙虚さが残っています。「よろしかったでしょうか」ではすでに判断は店側が済ませてあり、客にその承認を求めるだけという傲慢さが感じられます。

なるほど、そのとおりだ。たとえば、ファストフード店でよく聞くフレーズに、「ご一緒にポテトはよろしかったでしょうか」がある。この言い方には、「普通のお客様はハンバーガーと一緒にポテトも召し上がります。お客様はハンバーガーだけのご注文ですが、本当にポテトは注文しなくていいんですよね」というニュアンスが感じられる。ひょっとすると、このように言われた客がついつい注文してしまうことを狙って、わざとこういう言い回しを考え出したのかもしれないと思ったりもするが。

ただ、同書によると、最近はこのようなマニュアル敬語に変化が見られるとのこと。ファミリーレストランのロイヤルホストでは、「こちらのほうがメニューになります」を「どうぞメニューでございます」、「1,000 円からお預かりします」を「1,000 円お預かりします」に、「チキンカレーでよろしかったでしょうか」を「チキンカレーでよろしゅうございますか」に改めさせているとのことだ。とってもいいことだと思う。

最近ロイヤルホストに行ったことがないので、自分の耳で確かめてはいないが、ロイヤルホストのこのような取り組みによって、ほぼ定着しかけていたファミレス、コンビニ、ファストフード店の変なマニュアル敬語が駆逐されることを願う。

4106101165そんな言い方ないだろう (新潮新書)
新潮社 2005-04-15

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熊が出たら死んだふり: 土曜の午後は吉本新喜劇

関西で土曜の午後と言えば吉本新喜劇。放送されるのを楽しみに待つような番組でもないし、録画してまで見る番組でもない。昼ご飯を食べたあとに、コーヒーでも飲みながら何となく見る番組だ。もうずいぶん前のことになるが、ゴールデンタイムに進出したことがあったが、結局は短期間で終了してしまった。もともと、ゴールデンタイムに見るような番組ではないと思うし、ゴールデンで受けるような配役や構成にしてしまうと、吉本新喜劇のよさはなくなってしまう。

私が子どものころの吉本新喜劇では、岡八朗、花紀京、原哲男、船場太郎といった面々が活躍していたように記憶している。「ごめんくさい」「~ じゃ、あーりませんか」「何処へ」などのギャグでおなじみのチャーリー浜氏もこのころから活躍していたように思う。吉本新喜劇の特徴は、それぞれの出演者に持ちギャグがあること。マイナーチェンジはあるものの、同じギャグを数年から数十年にわたってやるため、この人が出てきたらこのギャグをやるということがすべてわかっている。しかし、わかっていながらいつ見ても笑ってしまう。わかっていながらおもしろい吉本新喜劇のギャグって何なんだろう。

わかっていながらもおもしろいギャグの中でも、最高にばかばかしいと思うのが、「しまったしまった、島倉千代子」や「困った困った、こまどり姉妹」などの「去り際台詞」でおなじみの島木譲二氏の一連のギャグ。熊のような風貌の島木氏が登場すると、出演者全員が「あっ!熊や。死んだふりせえ」と言って死んだふりをする。その様子をみた島木譲二までもが、怖がって死んだふりをする。これぞ、ばかばかしさの極みである。

「熊が出たら死んだふり」っていうのは昔からよく聞くが、これって本当に有効な手段なんだろうか。前から気になっていたので調べてみた。「もし、熊に遭ったら、どうする!本当の熊対策」によると、熊に出会ったら、「死にものぐるいで抵抗反撃すること」が最善の策で、死んだふりをするなど論外だそうだ。熊と旅人@Wikipedia でも、「熊の前で死んだまねをするのは自殺行為」となっている。やっぱりそうか。でも、たとえ「死んだふり」が本当に有効な手段だったとしても、実際に熊に出くわしたときに、死んだふりをする勇気は私には絶対にないが。

閑話休題。同じギャグを長年にわたって繰り返すのが特徴の吉本新喜劇において、比較的短命のギャグもあった。「ローテーショントーク」だ。これ、おもしろくて好きだったんだけどなあ。

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落語を通して見る江戸時代の生活と世相

私の親の世代は、年齢の話になると必ず「数えでいくつ、満でいくつ」と、2 種類の年齢を言っていた(今でも言っているのかどうかはよくわからないが)。先日もテレビで 96 歳のおじいちゃんが年齢を聞かれて、「数えで~」と言っていた。戦前の人にとっては、年齢のデフォルトは今でも数え年なのかもしれない。日本で満年齢が正式に使われるようになったのは、昭和 25 年から(「年齢のとなえ方に関する法律」の制定による)とのことだから、歴史的な観点から言えば満年齢という概念が定着したのはつい最近のことだ。

『落語の国からのぞいてみれば 』(講談社現代新書、堀井健一郎著)は、落語を通して江戸時代の生活やものの考え方や習慣などをわかりやすく説明している本。数え年という概念やその根底にある社会通念をわかりやすく解説した「数え年のほうがわかりやすい」など、興味深い内容が満載の本で、楽しく読める一冊だった。私が特におもしろいと感じたのは、「みんな走るように歩いている」と「三十日には月は出ない」と「昼と夜では時間がちがう」の章。

「みんな走るように歩いている」は江戸時代の交通事情についてのお話。江戸時代の人は江戸から京都まで歩いていたと聞くと、当時の人は大変だったんだなと思ってしまう。しかし、こういう発想自体がもう現代人の発想なのだという。歩く以外に手段がなかった当時の人にとって、それは大変なことでも不便なことでもなかった。現在では、新幹線を利用すると東京・京都間を2 時間ほどで移動できる。このことが普通のことだと思っている現代人の前に 35 世紀の未来からやってきた未来人が現れて、「ソンドブを使えば 45 分で移動できるのに、なぜソンドブを使わないんですか?ソンドブがないなんてずいぶん大変ですね」と言われているようなものらしい。確かに、「ソンドブがないから大変だ」とか言われても、そんなものが現実としてないんだから、わたしたちは別に不便だとも大変だとも感じない。うまいたとえ話だと思う。江戸時代の人にとって、歩くというのはそういう感覚らしい。

「三十日に月は出ない」は、当時の明かりとしての月のお話。月(month)が月(moon)の満ち欠けを基盤としたものであることはもちろん知識としては知っている。今日は 15 日だから満月だとか、30 日だから月が出ないだとか、月の満ち欠けを意識しながら生活している現代人はほとんどいないと思う。しかし、日が沈んだあとは、暗闇の世界に支配されていた当時の人からすれば、闇夜を照らす存在としての月は、現代人が想像する以上に生活に密着した存在であり、人々は常に生活の中で月を意識していたとのこと。言われてみれば、なるほどと思うことだが、夜でも昼と変わらない明るさが簡単に得られる現代人からしてみれば、まったく価値観が異なる世界といっても大げさではないような気がする。

先週の『龍馬伝』を見ていてずいぶん違和感を覚えたが、この本に記載された江戸時代の恋愛事情からすると、龍馬と加尾の恋のエピソードはかなり現代風なアレンジが加えられたものであったことが想像される。200 年前の世界にタイムスリップしたような感覚で楽しく読めるこの本、落語好きの人にも歴史(時代劇)好きの人にもおすすめしたい一冊である。

4062879476落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)
講談社 2008-06-17

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『落語の国からのぞいてみれば 』のくにしろの評価: 星 4.5 個

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